2017年8月21日月曜日

パブリッシャー [著]トム・マシュラー

■スゴ腕出版人の回想録

 巻末に、日本の読者のためにブックガイドが掲載されている。その名前のすごさにあきれるだろう。S・ラシュディ、T・ピンチョン、J・アーヴィング、R・ダールといった作家をはじめとして、科学者、俳優、芸術家など、手がけた著者陣のすごさ。いかにマシュラーが敏腕な編集者であったかを示している。
 本書は、その回想録であるからおもしろくないわけがない。映画監督の夢が破れた青年が、ペンギンブックスを経て、ジョナサン・ケイプに入社したのは、一九六〇年五月だった。それからたちまち、同社は一流の出版社にのしあがる。
 まだ無名の存在だったG・マルケスに、一度に五冊という前代未聞の契約をする。その中の一冊が『百年の孤独』だった。いたずら書きがおもしろいというところから、『絵本ジョン・レノンセンス』を発想する。動物園の哺乳(ほにゅう)類管理者だったD・モリスに『裸のサル』を書かせた経緯。
 編集者ゆえに知りえる多くのエピソードから、著者との個人的つきあいまで、まさにひとつの出版の歴史だ。この良質出版社が、結局、ランダムハウスに吸収され、さらにベルテルスマンに売却されるというプロセスはなんとも皮肉である。
 小高賢(歌人)
   *
 麻生九美訳、晶文社・2940円

2017年8月20日日曜日

階級社会 現代日本の格差を問う [著]橋本健二

■フリーター・無業者層をどう規定するか

 日本の思想界では、ごく最近まで「階級」という言葉は死語に近かった。日本は階級社会であるなどと発言する人間は、変人か「極端な政治思想の持ち主」かと見なされかねなかったそうだ。
 本書はそのタブーを破り、二十一世紀に入ってから顕著に進んで、「格差社会」「不平等社会」「縦並び社会」などと表現されてきた日本社会の貧富差固定の構造を「階級社会」と規定している。「階級」の概念を「社会的資源によって区分された社会階層」と定義し、脱マルクス主義的・脱政治的・脱革命思想的な「普通の」用語だと強調しているのが特色である。
 現代日本の社会構成は、(1)資本家、(2)旧中間階級、(3)新中間階級、(4)労働者という「四つの階級」を大枠として分析される。
 最初の二つは雇用者側で、「従業員規模が五人以上の経営者・役員・自営業者・家族従業者」は資本家であり、同五人未満は旧中間階級とされる。吹けば飛ぶような中小企業主と寡占資本の経営陣との差異はどうなるのだろう。
 著者が特に力を籠(こ)めるのは、被雇用者側の問題であり、その内部に走る「階級の分断線」のことだ。コンピューター・リテラシーが高く、専門・管理・事務職に従事する新中間階級は、今や労働者に対する「最大の搾取階級」であるとされる。被雇用者なのに搾取する側なのか。いちばん抑圧されている日本の労働者階級は「政治的には最も不活性な階級」であり、「階級闘争が発展する可能性はきわめて低い」と悲観的だ。
 焦点になるのは、その労働者階級からも落ちこぼれて「一種の下層階級」を形成し、三十五歳未満人口の二八・七%(五五〇万)を占めるフリーター・無業者層である。
 格差を解消する階級闘争の突破口は、新中間層の労働時間短縮にありとする著者はこれらフリーター・無業者層を「アンダークラス」と規定している。評者のような老世代にはこの労働者以下の「使い捨ての階級」こそ、正真正銘のプロレタリアートの出現と見えるのだが、この用語はやっぱり古いのだろうか。
 評・野口武彦(文芸評論家)
   *
 講談社選書メチエ・1575円/はしもと・けんじ 59年生まれ。武蔵大学教授(理論社会学)。

2017年8月19日土曜日

心にナイフをしのばせて [著]奥野修司

■逸脱覚悟し、遺族の傷の深さ描写

 一九六九年に神奈川県で起きた、高校一年生による同級生殺害事件——本書は、被害者の遺族が過ごしたその後の日々を克明に伝え、同時に加害者の少年Aが弁護士になって社会復帰を果たしていながら、慰謝料の支払いはおろか、いまだ謝罪すらしていないことを明かす。
 ……という内容だけでも十二分に「問題作」「衝撃作」に値する本書だが、「それがどう書かれているか」に目を転じると、本書が「問題作」となる所以(ゆえん)は、じつはむしろこちらのほうなのではないか、と気づかされる。
 本書の大半は、被害者の妹の一人語りで構成されている。〈四半世紀以上も前の悲しみを、いまだに癒やされずに背負いつづけている〉遺族の姿が、書き手の目を介さずに描かれる。事実関係の吟味や補足はあっても、遺族に全面的に寄り添った手法である。それがノンフィクションの枠からはみ出しかねないことは、むろん、ベテランの奥野さんは百も承知のはずだ。
 だからこそ、あえて一人語りを採用したことは、本書のテーマそのものとつながる。無念を抱いて死んだ父親、精神障害を疑われるまで心に痛手を負った母親、感情が消え去ってしまった妹。そんな遺族の傷の深さは、書き手が整理して代弁するのではなく、遺族自身の揺れ動く声でなければ伝えきれない——奥野さんはそう考えて、厳密な「事実」に担保されたノンフィクションからの逸脱も覚悟のうえで、当事者の「内面」をダイレクトに描く手法を選んだのではないだろうか。
 その覚悟を踏まえるなら、「Aが弁護士になっていた」というスクープが強調されすぎるのは、本書の望む読まれ方ではないだろう。遺族の苦しみは、決してAの事件だけの特殊なものではない。被害者側の救済が置き去りにされた少年法に対する〈釈然としない〉奥野さん自身の思いもそこに重なるはずだし、遺族の「内面」を描いた本書は、少年法論議はもとより、少年犯罪が起きるたびに加害者の「内面」=心の闇にばかり目が行ってしまう風潮にも一石を投じているのだから。
 評・重松清(作家)
   *
 文芸春秋・1650円/おくの・しゅうじ 48年生まれ。『ナツコ』で大宅壮一ノンフィクション賞など。

2017年8月18日金曜日

捕鯨問題の歴史社会学 [著]渡邊洋之

■国家的保護産業の歩み実証

 国際捕鯨委員会による捕鯨の一時停止から、すでに20年近くが経(た)っている。そこでは環境や捕鯨文化を語る非政治的なはずの議論が、国際政治やナショナリズムの立場と密接に関連する構造が生まれている。日本政府も日本沿岸の小型沿岸捕鯨は、日本の民族的な捕鯨の伝統文化に基づくものだと唱えている。
 本書では日本の近代捕鯨は、必ずしも伝統文化を継承したものではないとしている。それは、技術を西欧から輸入し植民地を基盤としながら、国家的保護の下に発展した一つの「産業」であったとするものである。つまり「産業」化した捕鯨は、技術も労働力編成も伝統的なそれとは異なり、古い時代からあった日本人の鯨に対する観念との摩擦・軋轢(あつれき)を生みながら、新たな鯨肉市場を開拓する拡張主義的なものだった、というのである。
 本書は、かつて森田勝昭が『鯨と捕鯨の文化史』の中で提起した日本の近代捕鯨に関する論点を、実証的に深め豊かにしたものともいえる。著者は、文化論が政治的意味を持ってしまう仕組みがあることを指摘しているが、政治と結びつきながらそれを越えた実証研究の確かさを感じさせる著書といえよう。
 評・赤澤史朗(立命館大教授)
   *
 東信堂・2940円

2017年8月17日木曜日

裁判員制度はいらない 高山俊吉著 正面から廃止求める「全否定の書」

 裁判官はシロウトには向かない職業である。「職」とは「専」だ。人を裁くことは誰もが簡単にできる仕事ではないから、専門的に訓練され、俸給を与えられ、身分と安全を保障された職業裁判官が特別に任命される。
 本書は、二〇〇四年五月に超スピード審議で成立し、二〇〇九年五月までに、と施行を期す「裁判員法」を相手取り、なんらかの修正を求めるのではなく、真正面から裁判員制度そのものの廃止を主張する「全否定の書」である。
 二十歳以上・七十歳未満の健康な国民は、呼び出しがかかったら指定の日に裁判所へ出頭しなければならず、裁判員に選定されたら、「やりたくない」といっても拒否できず、守秘義務を課されて裁判の内容は他人に口外できず、そのどれかに違反すると、懲役または罰金で処罰される。今まさに、そんな法律が実施されかけているのだ。
 本書に特別寄稿した嵐山光三郎は、「人を裁くというのはげに恐るべきことで、神の仕事だ」といっている。たしかにその通りで、職業裁判官には民意によって約定された《法の女神》の代行というストレスがかかる。常人以上の権限を背負うという点で、裁判官は、逆説的に、オカミでなければ務まらない。
 裁判員制度を支持する法律家は、「国民の司法参加で『司法はお上に』の意識を変える」といったそうだ。シロウトには裁判能力などないことを承知の上で、下々の一般市民を裁判に参加させるのだから、他に下心があると見られても仕方がない。ストレスの分散・転嫁である。最後には政府案に賛成させられる民間委員を連想するのは評者だけではないはずだ。
 人を裁いて死刑や懲役を言い渡すのはイヤだ、という庶民感覚には大義がある。本書が指摘するように「裁判員制度と陪審制のすりかえ」はやっぱり要注意だ。強引に本制度を実施した場合、法廷は雷同裁判の場になるか、何ともいえず不調法・不細工・不体裁な司法の漫画と化すのではないかと不安になる。
 無理のある制度は、見直した方がいいのではないか。
 評・野口武彦(文芸評論家)
     *
 講談社・1365円/たかやま・しゅんきち 40年生まれ。弁護士。憲法と人権の日弁連をめざす会代表。

2017年8月16日水曜日

ヒバクシャになったイラク帰還兵 [編著]佐藤真紀

■戦争後も広がる放射能汚染

 原発や核兵器製造過程で生ずる核廃棄物を再使用した劣化ウラン弾は、湾岸戦争やコソボ、アフガニスタンで使われ、多くの癌(がん)患者を出し続けている。
 なのに、地雷廃絶のように国際的な関心にやや欠けるのは、被曝(ひばく)の科学的立証が困難なこと、米がその危険性を認めないこと、政治的議論に埋没しがちなことがあろう。爆撃のインパクトが外部世界に見えにくいことも、無関心の一因だ。
 本書の特徴は、イラク戦争後のイラクでの米兵の被曝実例を取り上げた点にある。米軍が遠くから攻撃しただけの湾岸戦争では、住民が死んでも外から見えなかった。だがイラク戦争後、多くの外国兵がイラクに留(とど)まる今では、放射能汚染の広がりは隠しようもない。イラクに関(かか)わる者すべてが被曝の危険にさらされていることを、本書は指摘する。
 だが本書は、武器を扱う側の安全を確保すればそれでよしという具合に、問題が矮小(わいしょう)化されてはいけない、とも危惧(きぐ)する。「イラク人の被害を訴えてもアメリカの世論は動かない」から被曝米兵の声を聞く、というのでは、攻撃される人々の痛みを軽視することにならないかと、自戒を繰り返す。誠実な本だ。
 酒井啓子(東京外国語大教授)
   *
 協力 JIM−NET、大月書店・1470円

2017年8月15日火曜日

ユーゴ内戦―政治リーダーと民族主義 [著]月村太郎

■制御不能の力を使った悲劇

 私たちはいまや、人権や民主主義といった普遍的価値の前では、内政不干渉の原則が絶対ではない世界に生きている。将来の世界史の教科書がその始まりに置く事件は、91〜95年のユーゴ内戦であろう。この「内戦」こそ、軍事的紛争の主体を国家に限った近代的前提の崩壊を画す世界史的事件である。
 にもかかわらず、この事件について私たちはあまりにも無知である。原因の一端は、それが圧倒的に複雑なことにある。本書は、セルビアのミロシェヴィッチ、ボスニアのイゼトベゴヴィッチ、クロアチアのトゥジマンという三人の政治指導者に軸足を置き、彼らによって民族的利害がいかに政治的に翻訳されたか、それがどのような弊害や限界を伴って事態を収拾不能としたかを、克明に描いている。
 民族主義には大きな動員力がある。しかしそれゆえ、いずれ政治指導者の制御を超えてしまう。いくら強調してもしすぎることのないこの教訓を基調音に、三人の政治家の言動を軸に大胆に焦点を絞った記述のおかげで(また要を得た種々の付表のおかげで)、この複雑にして巨大な悲劇を理解する窓が、多くの読者に開かれた意義は大きい。
 山下範久(北海道大助教授)
   *
 東京大学出版会・3990円

2017年8月14日月曜日

道州制ハンドブック [監修]松本英昭/地方分権と財政調整制度 [編]持田信樹

■あるべき地方分権を考える必携書

 安倍総理が「3年以内に道筋を付ける」と明言し、注目を浴びる道州制。ここに紹介する『道州制ハンドブック』は、地方制度調査会が小泉内閣から諮問を受けて作成した答申と、そこに至る50回近い会議における議論の経過や資料を網羅したものである。
 道州制に関するマスメディアの報道は「どの県がどの道州に入るのか」という区域割りにばかり焦点があたるが、本書を通して、道州制の本質は国と道州、道州と市町村の役割分担にあり、「中央集権型政治行政システム」を「地方分権型政治行政システム」に再構築する大改革であることが明らかになる。
 権力が殺(そ)がれることになるため、中央省庁の抵抗も大きく、道州の権限や組織について国民が目を光らせていないと形ばかりの「官製道州制」に終わってしまう。道州制の本質を的確に把握した本書は、今後の日本の姿を考える必携書といえよう。
 道州制で重要な問題となるのが、財政的に豊かな自治体と貧しい自治体の間の財政調整機能である。『地方分権と財政調整制度』は、そうした調整を各国がどう行っているのかの仕組みを紹介し、そこで生じた事態を実証的に明らかにしている。
 例えば、オーストラリアは日本と同様に中央政府の差配による「垂直的財政調整」を採用している。ただし、政府から独立した委員会が各州政府に対する交付金の配分割合(額ではない)を算定して連邦政府に勧告し、連邦政府と州政府の協議機関で配分額を検討する。こうすることで、交付金と財源の間に日本のような大きな赤字が発生しないようにしている。
 他方、自治体同士の「水平的財政調整」を採用するドイツでは、1人あたり経費負担に3・5倍もの格差が生じており、スウェーデンでは調整金の大部分を拠出させられる首都ストックホルム県・市の住民が強い不満と反発を見せているという。
 今後、日本がいかなる財政調整制度に転換するかで、実現する地方分権の姿も大きく変わってくる。広く読んでいただきたい書である。
 評・小林良彰(慶応大学教授)
   *
 『道州』ぎょうせい・3200円/まつもと・ひであき 『地方』東京大学出版会・5040円/もちだ・のぶき

2017年8月13日日曜日

文化とは何か [著]テリー・イーグルトン

■乱用され「インフレ」状態の文化概念

 本書は、広く読まれた『文学とは何か』の著者による文化概念のコンパクトなパノラマである。
 文化という言葉は、今日きわめて多義的に用いられる。本書のひとつの軸は、その多義性の混乱を整理する際の補助線として、普遍的価値を志向する文化と、個別的価値を志向する文化との区別を導入することである。乱暴に言えば、美術館や禅寺の文化と、コンビニやカラオケボックスの文化というわけだ。前者ではひとは自己を超えて高次の価値に接近しようとし、後者ではひとは自己のあり様を肯定する(逆の人もいるだろうが)。本書は、文明概念との相関関係の歴史的変容を跡付けること(類義語から対義語へ劇的な展開を示すのだが)で、文化概念に、この普遍/個別の緊張関係が持ち込まれる過程を鮮やかに描き出す。
 この普遍/個別の緊張関係を前提にしたうえで、本書はさらに、卓越としての文化、同一性(アイデンティティ)としての文化、商品としての文化という三つの相が演ずる複雑な合従連衡に、分析を大きく展開させる。文化は、ある場合には伝統や権威と結びつき、別の場合には支配への反抗や承認の欲求と結びつき、さらに別の場合には身も蓋(ふた)も無く利潤の種として扱われる。たとえば、地産地消運動は、伝統を基礎にすることが多いが、地域の同一性の主張と結びつくこともあれば、露骨な商業主義と結びつくこともあり、かならずしも調和しない。そのくせ、どの立場の人間も「文化」を口実にするために、言葉の実質は目減りする一方である。
 著者は、この文化概念のインフレの帰結として、この言葉が人間にとっての現実の無限の可塑性と同義に近づいている現状を憂えているようだ。文化からのアプローチによって変えられる現実の規模と射程は、今日の理論家たちがしばしば無自覚に前提としているよりはるかに小さいと、あっさりいってのける。ポストモダンも遠くなりにけり、である。
 原著の口吻(こうふん)まで伝える疾走感のある訳文はさすが。憑(つ)き物が落ちるような読後感である。
 評・山下範久(北海道大学助教授)
   *
 大橋洋一訳、松柏社・3675円/Terry Eagleton 43年生まれ。イギリスの文化批評家。

2017年8月12日土曜日

ジェンダーで読む〈韓流〉文化の現在 [編]城西国際大学ジェンダー・女性学研究所

■マジメで硬派な「冬ソナ」本

 『ジェンダーで読む〈韓流〉文化の現在』。色気のない小むずかしげな書名だが、何を隠そう、これは「冬ソナ」本なのだ。
 日本では2004年に火がついた韓流ドラマ「冬のソナタ」。このメロドラマ、そして主演のペ・ヨンジュンがなぜそれほど人気なのかについては私も何人もの人と雑談をしたけれども、まさかそれをテーマにシンポジウムを開いてしまうとは!
 パネリストは水田宗子氏をはじめとする女性学の第一線の研究者。物語論や女性論の視点で「冬ソナ」がマジメに分析される一方、黒一点(?)の姜尚中氏が物語の背景をなす韓半島の同時代史をおずおず語って花を添えたりしている。
 結局あれでしょ、先生方も「冬ソナ」にハマっちゃったのよね。という想像はたぶん当たっている。しかし、語り合うに足る要素を韓流ブームが備えているのもまた事実。
 中高年女性が中心のこのブームは「オバサン=オバカサン」という揶揄(やゆ)の図式で報じられてきた。が、これは大衆的な広がりを持つ「女たちによるアジアの発見」であり、彼女らの学習熱と行動力を見くびるでないぞとの指摘にはドキッ。
 後半は家族論や観光論などの論文集。硬派な「冬ソナ」本なのだ。
 評・斎藤美奈子(文芸評論家)
   *
 現代書館・1575円

2017年8月11日金曜日

9人の児童性虐待者 [著]パメラ・D・シュルツ

■加害者を取材し、対策を探る

 幼女がわいせつな行為をされ、その上殺される事件を私たちは幾度も見聞きした。そのつど怒り悲しみ、子どもを守るためにあれこれ手を打つけれど、根本的な解決にはほど遠い。
 本書では、被虐待経験を持つアメリカ人の女性研究者が、児童性虐待者に刑務所内で個別インタビューを行う。序章で「児童性虐待と効果的に闘うには、加害者を理解しなければいけない。どうか、偏見のない心で読んでいただきたい」と読者にも覚悟を迫る。
 露出狂から攻撃的なレイプ犯まで、9人の男性は実に率直に語る。トニーは実父から吃音(きつおん)を種にいじめられ、レッドは10歳の時に40代の男性からレイプされた。継父から鼻を折られるほど暴力を受けたビリー。ベンの場合、一族の中で性虐待が行われていた。
 著者は、それが犯罪の言い訳にはならないとしながらも、彼らがどんな教訓を学んで大人になったのかと訴える。「加害者たちをひとまとめに処罰するのでなく、救済の望みがある者には治療の道を見つけるべきだ」と強調する。「執筆に全人生をかけてきた」著者にとって、本書の完成は何よりの癒やしになったと信じたい。
 評・多賀幹子(フリージャーナリスト)
   *
 颯田あきら訳、牧野出版・2940円

2017年8月10日木曜日

インドの時代―豊かさと苦悩の幕開け [著]中島岳志

■目を見張る都市中間層の生活

 ちょっとした「インド・ブーム」である。経済面ではITを中心とした目覚ましい経済成長に注目が集まり、政治面では何かと摩擦が絶えない中国に対するカウンターバランスとしての期待が高まる。最大の魅力は、十一億人口の半分が二十五歳以下という、若い大国である点だろう。
 私も話には聞いていたが、本書で描かれるインドの都市中間層の暮らしぶりには目を見張った。欧米風ニュータウンでの夫婦と子供二人の核家族、家事も育児もこなす優しい夫と自立した妻、子供たちは高学歴を目指して受験勉強に勤(いそ)しむ。これが理想のライフスタイルで、家父長的な大家族制は崩壊寸前にある。
 エステ、ダイエット、“癒(いや)し”ブーム。半面、人間関係の希薄化が進み、都市部では自殺が急増している。まったくどこの国の話かわからない。
 著者によると、人口の約二割がこうした中間・富裕層に属するが、一方で約四億人が極貧に喘(あえ)いでいる。カップルが街頭でキスを交わすデリーから、クルマで一時間ほどの農村に行くと、女たちは家に隠れ、外に出ても顔を覆ったままだ。あまりにも極端な二分化が生まれている。
 著者はこうした状況とインド現代史を手際よく紹介しながら、焦点を、年来の関心事である「ヒンドゥー・ナショナリズム」に絞り込んでゆく。ヒンドゥー的なるものを称揚するこの動きは、かたやヒンドゥー過激派によるイスラム教徒虐殺、かたや孤独な都市住民の心の拠(よ)り所(どころ)という硬軟両面で広がり、政治を左右する一大勢力にまでなってきた。問題は、イスラムやパキスタンといった外部の敵を措定する排外志向で、著者から厳しく批判されている。ヒンドゥー・ナショナリストが歴史教科書の書き換えに執心する所も、既視感がある。
 激変を遂げつつあるインドの現状を知るには、格好の一冊と言ってよい。ただ、巻末の「多一論的宗教哲学」とマザー・テレサにまつわる記述には、違和感が残る。せっかく積み重ねてきたフィールドワークの重みを、減じてはいまいか。“若書き”の勢い余ったということだろうか。
 評・野村進(ジャーナリスト)
   *
 新潮社・1575円/なかじま・たけし 75年生まれ。著書に『中村屋のボース』(大佛次郎論壇賞)など。

2017年8月9日水曜日

国際NGOが世界を変える [編著]功刀達朗、毛利勝彦

■「地球市民」への展望を実感

 貧困や人権、民族対立、環境などの問題に立ち向かう国際NGOの現状と課題に取り組んだ、第一線の活動家たちと研究者による最新リポートだ。対テロ戦争の対症療法が世界をますます混迷させる中で、国連の「ミレニアム開発目標」などへの息の長い取り組みこそが「地球市民社会」への展望を開いてくれることを実感させる好著である。
 「ピースウィンズ・ジャパン」の大西健丞氏、「オルタモンド」の田中徹二氏ら実践者たちの論考は課題も突きつけて生々しいが、対人地雷禁止や、債務帳消しキャンペーン(ジュビリー2000)などで顕著な存在感を築いてきた国際NGOが、政策提言力を高めて、世界政治のアクターになりつつある現状がよくわかる。
 日本での活動基盤は弱いとの指摘が共通する。世界中で昨年展開された「ホワイトバンド」は日本でも450万本も売れる盛り上がりをみせたが、単純なチャリティーと誤解されがちで、「貧困を生む政策を変更せよ」との運動の趣旨は十分理解されていなかったようだ。内向きの価値観が大手を振る今のこの国に必要なのは、たとえば仏が先行実施した国際連帯税などの豊かな発想なのだが。
 佐柄木俊郎(国際基督教大学客員教授)
   *
 東信堂・2100円

2017年8月8日火曜日

危険学のすすめ——ドアプロジェクトに学ぶ [著]畑村洋太郎

■「勝手連」式の事故調で原因を究明

 公共住宅のエレベーター、流水プールの吸水口、学校の防火シャッター、ガス湯沸かし器、家庭用シュレッダー。この数カ月間を思い出すだけでも、人工物による重大事故は後を絶たない。そのたびにニュース番組から聞こえてくる言葉は「危険を未然に防ぐことはできなかったのでしょうか」「メーカーはこの責任をどうとるのでしょうか」。
 たしかに道義的な責任を問うことは必要だ。しかし、と著者の畑村さんはいう。「原因究明」と「責任追及」を混同してはいけない。そこを明確に分けなければ、真の原因究明もむずかしいのだと。
 じゃあどうするのさ、とお思いだろう。そこに大きなヒントを与えるのが本書『危険学のすすめ』である。
 発端は2004年3月26日、六本木ヒルズ・森タワーの大型自動回転ドアに6歳の男の子が挟まれて亡くなった事故だった。国は国で対策に動いたが、それとは別に「勝手連的事故調」として発足したのが畑村さんらの「ドアプロジェクト」である。賛同者が好き勝手に集まった期間限定のこのプロジェクトは、大型自動回転ドアは他のドアより圧倒的に挟む力が強い「殺人機械」に近い代物だったことを実験から明らかにした。
 本書はその1年間の活動の記録だが、内容は回転ドア問題にとどまらない。
 ひとつには電車のドアからサッシまで広く「ドア」全般にひそむ危険を教えてくれること。自動は危険だが手動は安全と私たちは考えがちだ。が、自動車のドアやサッシの引き戸を勢いよく閉めたときの力は予想外に大きい。「手動はすべて危ない」のだ。
 もうひとつは組織論としてのおもしろさである。ドアプロジェクトの成功は「自分が何をすべきか」をそれぞれが考えて自律的に動く「自律分散型」だったことによると著者はいう。技術や資材を提供した参加者は個人から大手企業にまで及ぶ。事故を起こした会社も貢献した。
 安全マニュアルは不測の事態に対応できない。だから危険学。技術屋さんじゃなくても理解できる平易な記述にも「安全への配慮」あり!
 評・斎藤美奈子(文芸評論家)
   *
 講談社・1470円/はたむら・ようたろう 41年生まれ。東京大名誉教授。専門は失敗学など。

2017年8月7日月曜日

徳富蘇峰 終戦後日記―『頑蘇夢物語』 [著]徳富蘇峰

■「敗戦責任」追及

 意外な形で今日の時代と、波長が合ってくる過去の人物がいる。戦時中に戦争鼓吹のイデオローグだった徳富蘇峰も、その一人といえよう。それは本書の蘇峰が、まるで「新しい歴史教科書をつくる会」の先駆けのように、日本の国家の戦争責任や植民地支配の責任を全部否定しているからだけではない。
 彼は戦争責任の存在を否定しながら、敗戦の責任は追及している。しかもその追及の主な対象には、昭和天皇が含まれているのである。これこそ本稿が、長く世に出なかった理由であろう。むろん彼は、天皇制をあくまで守らねばならないとする立場なのだが、その主張が、何か今日の天皇制抜きの新しいナショナリズムの動きにも、微妙に波長が合っているように見えるのである。
 本書は敗戦直後から翌年1月にかけて日記の形式で書かれた、徳富蘇峰の79本の論説集である。彼は周囲からも、戦時中の責任を問われることが必至と噂(うわさ)される立場にあり、不起訴に終わったとはいえ、実際にA級戦犯容疑者の一人に指名された。本書の論説のテーマが、戦争責任や敗戦責任の問題に集中しているのは、それが彼にとって、どうしても自分の立場をハッキリさせなければならない問題だったからである。とはいえ彼も、戦後の情報の開示に伴い、これまで擁護していた日本軍部に対しては、次第に失望の色を強めている。
 ただし蘇峰は、単なるジャーナリストではなかった。現実に政治家と結びつきを持ち、政治家に建言し、政治を動かそうとする野心の持ち主であった。本書で興味深いのは、彼が戦時中や戦後にも、昭和天皇をはじめ東条英機、近衛文麿ら、多くの権力者に働きかけようとした回想が、ちらほら出てくる点である。それで見ると、彼が敗戦責任ありと追及している人たちは、みな彼が一時その政治行動に期待をかけ、建言したり働きかけたりした人であることが分かる。敗戦責任の追及は、結局それらの人たちが、彼の提言を聞かず、彼を疎外したことへの怨(うら)みつらみと結びついていたのである。
 評・赤澤史朗(立命館大学教授)
     *
 講談社・2940円/とくとみ・そほう 1863〜1957年。歴史家。著書に『近世日本国民史』など。

2017年8月6日日曜日

マンガは欲望する [著]ヨコタ村上孝之

■吹き出しや絵の手法を縦横に分析

 最近のマンガ研究は勢いがある。若い学問領域だけに、新しい成果を生む潜在力が大きいのだ。本書はマンガというメディアの特性を分析しつつ、近代からポストモダンへの移行という大きな思想的課題にも果敢に挑んでいる。
 例えば、マンガには二種類の吹き出しがある。風船のようなやつと、雲のようなふわふわの線で描かれるやつである。前者は実際に発話された言葉、後者は登場人物が内心で考えた言葉を表している。誰でも知っているマンガの約束だが、この区別を確立した里程標的な作品は手塚治虫の『罪と罰』(1953年)だという。それ以前の日本のマンガでは、発話された言葉と内心の言葉がそんなふうに明確には区別されていなかった。
 それでは、この区別によって何が表現されたか。それは外的な言葉と内的な世界の区別、外に出された言葉は分かるが、内面は分からないということだ。いい換えれば、人間は自分の考えしか分からない。つまり、風船形吹き出しと雲形吹き出しの区別は、自我の明証性と他者の不透明性という、近代文学を特徴づける考えがマンガにも刻印されたことを意味している。
 これだけでも非常に興味深い指摘だが、著者の考察はさらに先に進む。80年代後半ころから、吹き出しの風船形と雲形の区別は急速に曖昧(あいまい)になっている。つまり、近代が終わり、ポストモダンの時代に入るとともに、内面と外面、私と他者の対立が稀薄(きはく)になっているということだ。確たる近代的内面に代わって、複数の声が自己のなかで対話するような分裂的主体が有力になっているらしい。
 以上はマンガの言葉の話だが、絵についても、著者が杉浦茂の作品を例に巧みに説明しているように、マンガは一人称の視点や遠近法的視角の統一を土足で踏みにじる分裂的な表現力を発揮する。
 そうしたマンガのハイブリッドな特質が、乙女ちっくマンガや少年愛や「妹萌(も)え」など様々なテーマを契機に、さらに縦横に分析されていく。改めてこう叫びたくなること請け合いだ。マンガ、すごいじゃないか!と。
 評・中条省平(学習院大学教授)
     *
 筑摩書房・1995円/よこた・むらかみ・たかゆき 59年生まれ。大阪大助教授。著書に『性のプロトコル』。

2017年8月5日土曜日

戦後の終わり [著]金子勝

■「持続可能でない」日本を分析

 この3月まで朝日新聞の論壇時評で健筆をふるった著者は小泉政権が「自民党……を延命させた」という。実際、壊れたのは、財源不足で「自壊寸前」の公共事業による利益政治だった。
 この「自壊」こそ、族議員と派閥の利害調整が支えてきた自民党の「幅広いウィング」の喪失であり〈戦後という仕組み〉の終わりでもあった。にもかかわらず自民党が延命しているのは、規制緩和や民営化を源泉にした新たな利益政治への転換を図ったからだ。
 背景には、「小さな政府」のほうが経済は成長し、官僚支配はなくなり、国民負担も軽くなるというドグマ(独断)がある。
 しかし、経済協力開発機構(OECD)の調査によれば、「大きな政府」のほうが成長率は高い。また、過去の実績をみるかぎり民営化では天下りが減らず、公的負担の削減も自己負担に回るだけだ。
 800兆円を超える公的債務、1・2台の低い出生率、7割未満の国民年金納付率など、「今の日本社会は持続可能でない数字で埋め尽くされている」。本書は、既発表の時評と、改めて「いま」を論じた書き下ろしから成る。小泉政権の終わりに、著者の熱い筆致に戸惑わず、冷めた頭で読んでほしい一冊である。
 高橋伸彰(立命館大教授)
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 筑摩書房・1890円

2017年8月4日金曜日

爆笑問題の戦争論 [著]爆笑問題/憲法九条を世界遺産に [著]太田光・中沢新一

■「笑い」を力に現代日本に切り込む

 流行・風俗から政治・国際問題までを、「ギャグのネタ」として取り上げ続けてきた異色の漫才コンビ・爆笑問題。そのふたりが、「日本の戦争」だけをテーマに一年間、月刊誌での紙上漫才に取り組んだ。それをまとめた『爆笑問題の戦争論』では、先生役の田中裕二が日清、日露から太平洋戦争に至るまでの日本の歩みをわかりやすく説明するのだが、相方の太田光はすかさずしょうもないボケをかます。田中が「中国がまだ“清”と呼ばれてた時代だ」と言えば、「きよし」という具合に。
 しかし、「こんなにふざけてばかりでは先に進まないのでは」と心配するなかれ、太田は絶妙のタイミングで田中の話をボケずに受ける。たとえば、「こう考えると日本と中国の関係ってのは昔からあまり変わってないというのが虚(むな)しいよな」と。そして次第に、このふたりのスタンスが明確になってくる。それは、先の大戦を侵略戦争ととらえ、「戦争反対」の立場を取っているということだ。もちろん、その意思表明をするときでさえ、太田は「俺(おれ)、今まで戦争賛成だったけど、反対にまわるよ」とギャグの衣を着せることを忘れないのだが。ただ、あとがきでは太田は一度もボケることなく、この本を作るにあたってのためらいと覚悟を率直に吐露してもいる。
 『戦争論』で何かを踏み越えた、という実感があったのだろうか。その後に出た対談集『憲法九条を世界遺産に』では、平和や憲法への太田の思いは、もうギャグの衣を借りることもなく中沢新一を前にほとばしり続ける。とはいえ、太田は自分が「ああ、護憲派ね」とひとくくりにされることを望んではいないだろう。「宮沢賢治の作品は好きだ。でも、賢治が傾倒していった田中智学などの危険な政治思想は受け入れがたい」というどうしようもない違和感、割り切れなさとどう向き合うか、というところに太田の問題意識の出発点があるからだ。
 憲法九条に関しても同様で、これによって護憲派と改憲派からたくさんの意見が出て迷いが生じるが、「じつは、その迷いこそが大事なんじゃないかと僕は思う」というのが太田の主張だ。だからこそ、この類(たぐい)まれなる憲法を「世界遺産に」とふたりは言う。「平和は美しいから」といった理想主義とは、なんとかけ離れた九条擁護論であろうか。
 中沢のような思想家はともかく、太田はテレビを舞台とする芸能人であるから、政治色の強い発言を「色がつく」と言って止めようとする人もいただろう。しかし彼は、九条を守るという「冒険を続けたい」と言い、「自己嫌悪とジレンマの連続ですが、今が踏ん張りどきです」とまで言う。この破れかぶれなまでの勇気と決意を、論壇や政治家たちは、とくに奇(く)しくも同じ時期に同じ新書という形態で「憲法改正」という自らの政治理念を述べた次期首相候補は、どう受け止めるのだろう。爆笑問題に、今後も「お笑いの世界」と「言論の世界」の両方で自由な活躍の場を与え続けることができるかどうか。私たちの社会の懐の深さが今こそ問われている。
 [評]香山リカ(精神科医・帝塚山学院大学教授)
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 爆笑問題の戦争論/爆笑問題〔著〕
 憲法九条を世界遺産に/太田光・中沢新一〔著〕
 『爆笑……』幻冬舎・1365円/ばくしょうもんだい 漫才コンビ。『憲法……』集英社新書・693円/おおた・ひかり 漫才師。なかざわ・しんいち 多摩美大教授。

2017年8月3日木曜日

万民の法 [著]ジョン・ロールズ

■正義原理を模索するしたたかな思考

 宗教的・文化的な背景がきわめて異なっており、「西洋的」な政治理念(自由主義、民主主義)を必ずしも共有しない他者と、「私たち」はどのようにかかわりあうことができるのだろうか——宗教的な対立・確執が様々な局面で深刻化するポスト冷戦の時代を生きる「私たち」にとって、こうした問いはきわめて切実かつ喫緊なものとなっている。本書は、02年に逝去した現代リベラリズムの泰斗ジョン・ロールズが、原理的な次元にまで溯(さかのぼ)り、そうした問いに立ち向かった知的格闘の書である。
 ロールズといえば、当事者に無知のヴェール(それによって当事者は自分の社会における地位や身分などに関して無知となる)を被(かぶ)せた思考実験的な社会契約論で有名だが、本書ではそうした「社会契約の一般的な観念を万国民衆の社会にまで拡張させ」ている。まず初めに「自由で民主的な諸国の民衆」(リベラルな諸国の民衆)のあいだで妥当する正義原理が模索され、次に「リベラルではないが良識ある諸国の民衆」——たぶんにイスラム教国家を意識したもの——とリベラルな諸国の民衆との関係、さらにはよき秩序に恵まれていない「無法国家」などと対処するにあたって、どんなあり方が可能か、といったことが考察される。深刻で複雑な文化対立をはらんだ現実の国際社会における「政治的リベラリズム」の可能性を徹底的に探究した論考といえよう。
 国際関係を原理的・抽象的な次元で考察すると、しばしば「非現実的」とのレッテルを貼(は)られてしまう。しかし、文化対立の深刻さを真剣に受け止めつつも、安易な相対主義に与(くみ)することなく、「万民(諸民衆)の法」のあり方を追究するロールズの筆致は、そうした「現実主義」を撥(は)ね除(の)けるだけの力強さを内包している。いわゆる世界市民的(コスモポリタン)な構想には否定的な見解を述べているし、「正義の戦争」や原爆投下の是非についても踏み込んだ議論を展開している。現実主義/理想主義の対立軸に収まらない彼の思考のしたたかさを読者は痛感することだろう。
 評・北田暁大(東京大学助教授)
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 The Law of Peoples
 中山竜一訳、岩波書店・3465円/John Rawls 1921〜2002。元ハーバード大学教授。

2017年8月2日水曜日

刺繍―イラン女性が語る恋愛と結婚 [著]マルジャン・サトラピ

■社会の重圧笑いとばし、たくましく

 現代イランの恋愛・結婚事情を、えぐみのある絵と率直な言葉で、痛快に描いた本である。
 昼食会が終わった後、いつもどおり昼寝にいく男性陣。残された女たちは後片付けを終えると、サモワールで沸かしたお茶を飲みながら、「心の換気」と称するおしゃべりに花を咲かせる。陰口や愚痴、告白、涙……。でもこれがまったく陰湿じゃない。自らの手痛い経験までも、すべて激烈な喜劇として、あられもなく、笑い飛ばす。
 処女性に重要な価値があり、結婚は親の意向が重視されるなど、女性にとっては重圧の多い国。女たちはその現実に、様々な策を弄(ろう)して抵抗してきたのだ。
 ある女性は、家事と亭主の世話にあけくれる「妻」より、「愛人」でいるほうが最高と言い、処女を失ったことを悔やむ女性に「これで好きなだけセックスをしても、誰にもわからないわよ。この下にはメーターなんかついていないのよ!」と自分の下腹部を指差しつつ激励する(なるほどねえ、メーターか)。
 また、ある女性は、自分の尻の脂肪を胸にまわして豊胸・痩身(そうしん)の整形手術をしたことを告白し、「でも、あのばかは(夫のこと)、私の胸にキスするたびに、実はお尻にキスしているんだってことを知らないのよ」(どひゃー)。
 ちなみに、本の題名は処女膜などを縫い直す意味の隠語。部分刺繍(ししゅう)もあれば全面刺繍もあるとか。「案外たくさんのひとがしてるのよ!」
 一座の最年長の婦人は言う。「人生っていうのは……馬の上に乗る時もあれば、馬を背負う時もある」。その「馬」の感触、イラン女性ならずとも、身に覚えがあるはず。
 現在、核開発やテロ組織支援などで、危険な強気を誇示するイランだが、一方、本書に見る女たちの報復には一神教の閉鎖的な共同体に、風穴を通す陽気さがある。自国の政治をどう思うか、彼女らに本音を聞いてみたい。
 筆のタッチで描かれた絵は、人物の目や皺(しわ)の表情に、生々しい魅力が。漆黒の優(まさ)る独特の絵柄に、わたしはアジア的な懐かしさを覚えた。
 評・小池昌代(詩人)
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 BRODERIES
 山岸智子監訳、大野朗子訳、明石書店・2415円/Marjane SATRAPI 作家。69年イラン生まれパリ在住。原作はフランス語。

2017年8月1日火曜日

「知識人」の誕生 [著]クリストフ・シャルル

■ドレフュス事件で浮上した新階級

 イスラエル軍のレバノン空爆が激化するさなか、パレスチナ出身の故エドワード・サイードが一九九四年に刊行した『知識人とは何か』を読みなおした。そこで彼は、今日あるべき知識人を亡命者にしてアウトサイダー、権力に屈せず専門領域に閉じこもらないアマチュアと再定義している。メディア戦略にも敏感だったサイードは、東と西、少数派と多数派のみならず、現実と虚構の境界線を問い直す代表的な知識人だった。
 本書の著者シャルルは、そんな「知識人」概念が、一八九四年に第三共和制のフランスで起こった「ドレフュス事件」をきっかけに生まれたいきさつを比較社会史的に説き起こす。それは、ユダヤ系の将校ドレフュス大尉が軍の機密を記した「明細書」をドイツへ流したというスパイ容疑で逮捕され、えんえんと裁判が行われるも、肝心の文書が偽造のためドレフュスが冤罪と決まり、名誉回復がなされるまで八年もの歳月を要した事件である。普仏戦争に付随する反ドイツ感情ゆえにドレフュスがスケープゴートにされたのだとする説もあれば、ハンナ・アーレントのように、それはじつは、パナマ運河疑獄にユダヤ人がからんでいたことの余波なのだとする説も力強い。
 かくして、ドレフュス派が民主主義に基づき真実を明らかにするという大義名分を掲げるいっぽう、反ドレフュス派はそれ以上に国家を中心にした秩序の維持を優先させるという対立が露呈した。前者に与(くみ)する自然主義作家エミール・ゾラは一八九八年にドレフュス再審を求める宣言「われ弾劾す」を発表、その賛同者の署名運動が後者の陣営より「知識人の抗議文」と呼ばれたところから、今日でいう「知識人」が成立する。
 人種をめぐる論争は、先行する「文人」の役割を発展させながら、ときに「エリート」とも対立しつつ「真のエリート」を自負するような新しい階級を浮上させた。
 ゾラが当時最先端の科学を意識した文学者だったことを考え合わせるなら、本書の知識人像は、いまなお啓発的に映る。
 評・巽孝之(慶応大学教授)
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 NAISSANCE DES “INTELLECTUELS”
 白鳥義彦訳、藤原書店・5040円/Christophe Charle 51年生まれ。パリ第一大学教授。

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