2017年4月30日日曜日

琥珀のまたたき [著]小川洋子

■脆くはかない人間の生の輝き

 母が作り出した閉塞(へいそく)的な環境で、子どもたちはどのように生き、育つのか。小川洋子の長編小説『琥珀(こはく)のまたたき』は、その環境での日々とやがて訪れる崩壊を、何かを糾弾する視点からは離れた方法によって描く。
 四人の子どものうち、妹が病で命を落とす。それを機に母は引っ越しを決意する。行き先は、父が残した別荘。母のアイデアで、子どもたちは『こども理科図鑑』のページを指さして自分の新たな名前を決める。三人はオパール、琥珀、瑪瑙(めのう)となる。「壁の外には出られません」。母の決めたルールは他にもある。小さな声で話すことなどだ。
 子どもたちが母に逆らわないのは、妹の死という衝撃を共有しているからでもある。外界からほとんど遮断された場でも、遊びは次々と編み出され、物語が生まれる。どんなに閉じられている場にも、想像の自由はある。
 庭の雑草を食べるために連れて来られるロバのボイラー。自転車に品物を積んで訪れるよろず屋ジョー。外の空気を運び入れるものにも触れて、子どもたちはそれぞれ成長する。最初は完璧な均衡を見せていたかのような環境が、少しずつ綻(ほころ)びる。いつまでも子どもたちと閉じこもっていたい。そんな母の願望は、打ち砕かれる。
 この小説は、アンバー氏と呼ばれる晩年の琥珀の姿も捉える。「芸術の館」に暮らす氏は、図鑑の片隅に描いた絵を「一瞬の展覧会」として人々に見せる。それは家族との過去を思い起こさせるものであり、氏にとって、とても大切な営みだ。氏は自らを琥珀に閉じ込めているのだろう。容赦ない変化に対する、無自覚な抵抗のかたち。
 地層の中でゆっくりと形を成し、いつか掘り出されるもの。三人の鉱物や化石の名には、時間の手に握られている人間の脆(もろ)さ、はかなさがある。ひっそりとした生の輝きを、物語の器が受けとめる。
    ◇
 講談社・1620円/おがわ・ようこ 62年生まれ。『博士の愛した数式』で本屋大賞。『薬指の標本』『ことり』など。

2017年4月29日土曜日

祖先の物語 [著]リチャード・ドーキンス

■人類から出発し生命の起源へ至る旅

 英国科学界の貴公子ドーキンスは、『利己的な遺伝子』という扇情的なタイトルを冠した本を30年前に出版し(邦訳書は26年前)、読書界に鮮烈なデビューを飾った。生命の進化を突き動かしてきた究極の単位は、自己の複製増殖を至上命令とする自己複製子すなわち遺伝子であるというメッセージは、誤解も含めて各方面に大きな影響を及ぼしてきた。
 処女作出版時にはオックスフォード大学で動物行動学を講じていたドーキンスは、その後、刺激的な内容の一般向け進化学書を次々と送り出してベストセラー作家となり、10年ほど前からは同大学の寄付講座教授として、一般向けの著作・講演活動に専念している。
 そのドーキンスも今年で65歳。近影を見ると、相変わらず理知的でハンサムではあるが、髪はすっかり白く染まっている。今回世に問うた大著のタイトル『祖先の物語』にも、さまざまな思いが込められているのだろう。
 もっとも、本書の内容は、決して懐古趣味的なものではない。一般に生命の歴史を語る場合には、40億年近く前に起こった生命の起源から説き起こしてさまざまな生きものの盛衰を語り、われわれ人類へと至るというのがふつうである。ところがドーキンスは、生命の起源から現在まで連綿と続いてきた生物進化の系統樹を、現生人類から逆行するという、いわゆる倒叙法を採用している。そして、系統樹の枝分かれ地点に出くわすたびに、分岐点(結節点)上にいた祖先(彼はこれをコンセスターと命名している)にまつわる物語を語っているのだ。
 カンタベリー物語を模して個々の結節点で語られる物語は、祖先をめぐる単なる解説ではない。それぞれが一冊の科学書に発展させられるほど含蓄に富んだ、きわめてぜいたくな内容である。本書一冊を読み通せば、現代進化生物学を総覧できるというしかけなのだ。俊才ドーキンスが腕をふるった豪華絢爛(けんらん)たるフルコースといったところだろうか。
 しかし、人類を機軸に歴史を逆行する語り口には難点もある。人類の系統につながらないグループ、人類中心主義から見れば傍系にあたるグループ、子孫を残さずに潰(つい)えたグループについては多くを語らないまま置き去りにせざるをえないことである。いうなれば、勝ち組の歴史のみが語られる結果となるのだ。
 それでもドーキンスがあえて人類のルーツを遡(さかのぼ)る巡礼の旅に出た大きな理由は二つ考えられる。一つは、創造論を掲げるキリスト教原理主義への反撃であり、もう一つは、進化の偶発性を強調する進化学の一派への牽制(けんせい)である。はからずもドーキンスは、自らに向けられたウルトラダーウィニスト(適応万能主義とも揶揄<やゆ>される立場)という批判を、むしろ誇らしい称号であると切り返している。一見懐古調のタイトルをもつ本書は、じつはきわめて政治的な意図を秘めてもいるのだ。
 かつてぼくは、ドーキンスは説得される快感を味わわせてくれる著者であると書いたことがある。その点から言えば、本書の筆致はものたりない。それでもそこここで発揮されている筆の冴(さ)えは、さすがドーキンスである。
 評・渡辺政隆(サイエンスライター)
     *
 垂水雄二訳、小学館・上・下各3360円/Richard Dawkins 41年生まれ。進化生物学者、オックスフォード大学教授。著書に『利己的な遺伝子』ほか。

深夜百太郎 入口/深夜百太郎 出口 [著]舞城王太郎、MASAFUMI SANAI

 素顔を明かさない「覆面作家」による「百物語」。今年の夏にツイッターで毎晩1話ずつ発表した怪談を、『入口』『出口』の2冊に、50話ずつまとめた。
 顔を伏せて四つ足で機敏に動くクモ女や、事故で死んだ友人からの電話。異界の存在が唐突に出現し、日常の風景をがらりと変える。鬼にとりつかれた母親が息子をいじめて快感を覚える「笑う鬼」では、おはらいを受けても、鬼は完全には消えない。家庭に潜む狂気にぞっとする。
 深夜につぶやくような語り口がかえって不気味さを際立たせ、各話につくモノクロ写真からも不穏さが漂う。百物語はすべて語り終えると本物の怪異が現れるというが、はたして。
    ◇
ナナロク社・各1620円

2017年4月28日金曜日

オルフェオ [著]リチャード・パワーズ

■遺伝子の描く音楽の本質

 主人公ピーター・エルズは七十歳で独り身。オンラインで注文したDNAで自宅でゲノム改変を試みる、日曜遺伝子工学者だ。一方で彼は作曲家でもある。一見無縁に思える二つがエルズのなかでどう結びついたのか。七十年の人生と現代音楽史をより合わせながら明らかにしていく着想は、さすが分子生物学と音楽の両方に通じたパワーズだ。
 人間がいなくともこの世に音は存在する。それに秩序と意味を与える形式が音楽ならば、彼の求める音楽は別物だ。「音楽は“何か”そのものであって、何かを“意味”しているのではない」のだから。
 若い頃の観念先行は次第に後退するが、調性音楽には向かわない。妻子を捨て、得かかった名声を放棄しても音楽の極北へと突き進み、最後には遺伝子の描く「美の譜面」こそに音楽の本質があるという考えに到達する。
 ケージやライヒなど現代音楽家の活躍を同時代に体験した影響は小さくないが、それだけではこの生き方の説明はつかないだろう。結局こうしか生きられなかった人間なのであり、名を残す作曲家の下には彼のような前衛性と奇矯さを併せ持った無名の生が埋まっているのを感じさせる。
 孤独な人生である。だが、その姿は昔とは異なっている。かつては大自然の中や孤立した室内で求心的に癒やされたが、現代ではデジタルの編み目で外と繋(つな)がり、自己の発信するものが無限に増殖される。家宅捜索されてバイオテロの容疑で指名手配された彼が、追いつめられた意識を電子の海のなかで解放するのはその意味で象徴的だ。
 一つのセンテンスに歴史認識と理念が濃縮され噛(か)み応え十分だが、詩的なシーンも少なくない。ライヒの『プロヴァーブ』が流れるカフェで、この曲に気をとめる女性客とエルズが一瞬のやりとりをするシーンは美しく、音楽とは何かと問う著者の声が聞こえたような気がした。
    ◇
 木原善彦訳、新潮社・3132円/Richard Powers 57年生まれ。作家。『エコー・メイカー』で全米図書賞。

2017年4月27日木曜日

Masato [著]岩城けい

■異国の地、母の孤独と子の成長

 タイトルでもある語り手の真人は、父親の転勤により、12歳前後でオーストラリアに引っ越し、英語ができれば将来有利だからという理由で、現地の小学校に入れられる。最初は話せずにからかわれた英語も、子ども特有の吸収力でたちまち使いこなし、友だちもできてサッカーチームに加入するなど、急速に現地に馴染(なじ)んでいく。
 だがこの作品の本当の主人公は、どこにも属せなくなる母親の遼子である。夫の海外転勤のために仕事を辞めたものの、日々は駐在員の奥様方とのつきあいばかり、使わないので英語は上達せず、真人の学校の先生たちとの意思疎通もままならない。
 読み書きの問題により真人の成績が低下していることと、日本語力が低下し始めたこととで、遼子は真人を日本の側に奪回しようとする。中学から日本に戻れるよう、サッカーを禁じて日本語の補習教室に通わせる。そこで真人が知り合うのは、自分と同じような、内面が半ば現地人化している子どもたちだった。そのさまは、どんな場面で英語が自然に出てしまうかの書き分けに、リアルに表される。真人の曖昧(あいまい)な立ち位置は、友だちからの呼び名「マット」と、母からの呼び名「まあくん」に示されもする。
 かくして、真人と母親の間には理解のできない隔たりが開く。さらに夫は真人に理解を示すものだから、遼子はすっかり孤立する。その背後に、遼子を追いつめた日本社会の同調圧力が、透かし絵のように書き込まれる。
 多感な年齢の真人がオーストラリアの自由な空気を吸って伸び伸びと成長していくさまと、遼子の窒息しそうな痛々しいまでの孤独との対比が、読む者の胸を締めつける。だが、書き手の言葉は優しく繊細で、誰をも断罪することなく、喜び悲しみに寄り添う。現実の明暗を直視しながら、なお明るさを失わない強さが印象的だ。
    ◇
 集英社・1296円/いわき・けい 71年生まれ。大学卒業後に渡豪。『さようなら、オレンジ』で太宰治賞、大江健三郎賞。

2017年4月26日水曜日

レールの向こう [著]大城立裕

■人生の足元、確かめ拡がる世界

 沖縄の歴史や文化を主題として執筆を続け、戦後の沖縄文学を牽引(けんいん)してきた大城立裕の作品集。表題作は、八十九歳の作家が綴(つづ)る私小説。
 妻が脳梗塞(こうそく)を患って那覇の病院に入院する。記憶障害とリハビリの日々。衣替えの時期が来ても、「私」は秋に着られるシャツがどこにしまってあるのか見当がつかない。「私はお前に訊(き)くのを諦めて、しばらく薄着で我慢することにした」。思いついて箪笥(たんす)から引っ張り出したのは、五十年も前にハワイで買った厚手のアロハシャツ。
 ある日、雑誌から、急逝した真謝志津夫(まじゃしづお)への追悼文を依頼される。追悼を書く余裕はない状態の中、よみがえるのは、真謝が手掛けた一連の船舶小説のこと。「ただメカの説明が詳しすぎて、ときにそればかりを書いているように見えた」。船舶に拘(こだわ)り続けた真謝の姿勢や面影が「私」の脳裡(のうり)を往来する。死者との距離感を測りかねているような人物の立ち位置は、じつは誰にとっても親しいものではないか、と思う。
 「病棟の窓」という一編は、「私」の病気を描く。病院は思いがけない再会の場ともなる。「あの可愛らしかった娘も、もうそういう歳(とし)なのだ!」と、廊下で五十年前の旧知に呼び止められて感慨を抱く。体の動きが不自由になって、行動に制限が生じても、目に映る景色はむしろ新鮮なくらいだ。日常を淡々と綴る筆致は、思い出に変わっていく瞬間を書きとめる。
 他の四編は、家族と沖縄の葬制、ハワイへの移民一世と子孫のこと、見えない世界に通じる巫女(ゆた)と那覇市新都心の空虚感などを描き出す。いずれも沖縄の風土に根ざす作品だが、そうした地域性の濃さによるある種の限定が作風を狭めはしないことを、この小説集は力強く告げる。観察は掘り下げられ、拡(ひろ)がる。どこに生きているのか。その足元を、繰り返し確かめながらかたちを成していく世界だ。
    ◇
 新潮社・1728円/おおしろ・たつひろ 25年生まれ。表題作で川端康成文学賞。『カクテル・パーティー』で芥川賞。

2017年4月25日火曜日

砂の街路図 [著]佐々木譲

■時間が止まり、静寂な街に靴音が

 主人公は32歳、東京の高校の国語教師。2カ月前に母が亡くなり、遺品には亡き父に関するものがあった。横浜生まれの父は北海道の郡府(ぐんぷ)の大学に学んだ。卒業後は東京で堅実に働き、良き家庭人であった。ところが20年前、多くを語らず郡府に行き、同地で水死体となって発見された。警察は事故と判断したが、主人公は割り切れぬ思いをもった。父はいったい何をしにこの街に向かったのか。父の過去に何があったのか。主人公はひとり郡府を訪れる。
 舞台となる郡府は想像の産物であり、「品のいい老嬢」と形容される「時間が止まった」街である。二つの大学を擁し、路面電車が通り、歴史的にロシアとのつながりが深く露人街がある。細密に描写されるその町並みを巡り、住人と関わりを持ちながら、主人公は父の謎を追っていく。
 著者の佐々木譲は言わずと知れた、とびきりのストーリーテラー。幅広いジャンルを手がけ、2010年には円熟の筆の冴(さ)えに対して直木賞を受けている。主に北海道を舞台に展開する物語は、読み手を夢中にさせずにおかない。
 ……と紹介してきて、妙なことに気づいた。熱烈な佐々木ファンたる私が、いま何故(なぜ)はしゃがず、淡々と、文章を書いているのか……? そうか、それは本書が異色作であるからだ。波瀾万丈(はらんばんじょう)の事件と熱い男(と女)の躍動を活写する佐々木作品と、今作は趣を異にする。石の街路に革靴の音がコツコツと響く。本書はそうした静寂の中にある。
 「主人公の父」は佐々木と同年齢。不思議な幽霊船も夢幻のごとく現れる……。もしかしたら、精力的に走り続けてきた佐々木は郡府にしばしの憩いを求め、来し方を見つめているのではないか。そしてそこでの思索をもとに、新しい分野に踏み出そうとしているのかもしれない。この予測が的外れでないならば、本作はまさに分水嶺(ぶんすいれい)となる。見逃すことは、ますますできない。
    ◇
 小学館・1620円/ささき・じょう 50年生まれ。『廃墟に乞う』で直木賞。『エトロフ発緊急電』『警官の血』など。

2017年4月24日月曜日

Yの木 [著]辻原登

 「たそがれ」「首飾り」「シンビン」の3短編と、中編の表題作を収録。犬を散歩させる道で、「Y」の字のように二股に分かれた木を見つけてから、「彼」の思念はこの木を離れない。「彼」は和歌山県南部に生まれた団塊の世代で、ひそかに小説家を目指し、遅いデビューを果たすのだが、後が続かない。実在の人物である大瀬東二の作品とカミュ、小島信夫の作品の関係などが語られ、『羊をめぐる冒険』に「やれやれ」と小さなため息をつく。大瀬との付き合いと自殺、妻の急死、自身の文学の不如意などもろもろが、連続する「Y」の字を行きつ戻りつするように織り出されて、「Y」の木の下で喜劇的瞬間を迎える。妙な現実味が怪しい。
    ◇
文芸春秋・1404円

2017年4月23日日曜日

ピンポン外交の陰にいたスパイ [著]ニコラス・グリフィン

■米、英、中、ソの劇場 脇役に日本も

 日本語に「ショック」という言葉が加わったのは、その瞬間だった——。
 この一文には苦笑いした。1971年7月、米国のニクソン大統領が訪中計画を緊急発表した時のことだ。冷戦下で反共ブームに染まっていたはずの米国と、文化大革命の大混乱にあった中国の急接近は、日本をふくむ世界の対中外交を塗り替えた。
 本書は、その導火線となった「ピンポン外交」にかかわる男たちの物語である。前半の主役は、英国貴族のアイヴァー・モンタギュー。ヒチコックの映画制作にもかかわった早熟の御曹司は、なぜか学生時代から共産主義にのめり込む。政治思想を広める道具として、英国生まれの卓球に目をつけ、ルールを作り、国際組織を立ち上げる。
 「インテリゲンツィア(知識階級)」というコードネームを持つソ連のスパイとなった彼は、卓球の普及を掲げて冷戦下の東西両陣営をすいすいと往来する。そこに目をつけたのが中国だ。国内の労働者の団結や統制を超えて国際政治に活用できるスポーツとして、卓球を選ぶ。
 米中国交回復前後を描いた後半の主役は、両国の政治家や代表選手だ。卓球をソフトパワーとして使いこなした周恩来首相の外交手腕に舌を巻く一方、そのことが大躍進や文革を世界の視線からそらし、悲劇を拡大した皮肉も感じた。名古屋で開かれた世界選手権で握手を交わし、ピンポン外交の立役者となった二人のその後も、印象的だ。グレン・コーワンは精神を患い、荘則棟は政治への野心を燃やし、そして失脚した。
 米国、英国、ソ連に中国という大国がそろうピンポン劇場に、日本も渋い脇役として随所に登場する。敗戦国日本の卓球の躍進が中国を刺激したり、日本選手が周首相を執務室に直接訪ねたりと、興味深いエピソードにでくわす。卓球が転がした歴史の妙を味わえる本だ。
    ◇
 五十嵐加奈子訳、柏書房・2808円/Nicholas Griffin 英国生まれ、米国在住の作家・ジャーナリスト。

2017年4月22日土曜日

日々の光 [著]ジェイ・ルービン

■肌の色や宗教を越えた“母と子”

 書き方のスタイルはオーソドックスだし、「母探し」というテーマも新しいものではないが、母と子に血のつながりがなく、しかも肌の色が異なるとなれば話はちがう。
 戦前に北米に移住した野村という日系人一家、なかでも気丈さと愛情深さを併せ持った光子という女性が話の中心だ。彼女は移住先で子連れのアメリカ人男性と短い結婚をするが、戦争が勃発して独りで日本に帰国。父の元にもどされたビリー少年は、幼くてその女性がだれかも判断できないまま、彼女への強い思慕の念だけを体の奥に秘めて成長し、大人になって光子を訪ねる旅をする。
 強制収容所の箇所が印象深い。光子は夫から預かった幼いビリーとともにミニドカの収容所に移る。この不条理な処遇のことは知識では知っていたが、リアリティーがあったとは言えない。人里離れたへき地に建てられた簡易住宅に1万人もの日系人が詰め込まれたのだ。そこに金髪の少年が交じっている奇妙さ。いじめにあう彼を必死にかばう光子。彼女の経験を追ううちに収容所の細部が体に染み込み感情移入していた。これぞ小説の力である。
 後半は留学生として来日したビリーの目で、1959年から東京オリンピック前年までの日本が描かれる。光子を探す九州の旅、そこで探り当てた事柄が未知の事実を明らかにし、ビリーに新しい出会いをもたらすエンディングは光子の戦後にようやく光が射(さ)し込むようで感動を呼ぶ。
 北米では光子はクリスチャンで結婚相手は牧師だった。帰国して宗教を離れ、戦禍に苦しむ母国の人々と「怒りに包まれてたがいに愛しあう」道を選ぶ。「ザ・サン・ゴッズ(太陽神)」という原題にもうかがえるように、唯一神信仰への強い疑念が示されている。夏目漱石や村上春樹などの翻訳者として深く日本文化と関わってきた著者の、ひとつの主張がここにある。
    ◇
 柴田元幸・平塚隼介訳、新潮社・3132円/Jay Rubin 41年生まれ。ハーバード大学名誉教授、翻訳家。

2017年4月21日金曜日

夏の裁断 [著]島本理生

 求めておきながら、女がその気になったら冷たく突き放す。主人公の女性作家は、男性編集者の悪魔のような性癖に戸惑いながらも、過去の性的トラウマから、編集者の強い要求におびえつつ従ってしまう。胸苦しさを覚える物語だ。
 パーティー会場で編集者に襲いかかる場面から始まる。その後、傷を癒やすかのように、亡くなった祖父の自宅に引きこもり、蔵書を「自炊」するため、背表紙を黙々と裁断する。どうすることもできない自分へのもどかしさの裏返しのようだ。
 「膨大な我慢も混乱も」ため込んだ彼女が抜け出すすべはどこにあるのか? 夏の終わりの「本当の私」に救われる。
    ◇
 文芸春秋・1188円

2017年4月20日木曜日

冥途あり [著]長野まゆみ 出来事の残響 [著]村上陽子

■妙なる小世界、原爆の記憶

 東京の下町生まれの父と、その弟妹(きょうだい)、それぞれの子どもたちが暮らす、ゆるやかに水の流れる土地。ゆきかう小舟、江戸時代とじかにつながって息づく、小さな神さまや職人たちの営み。長野まゆみの筆の先からさらさらと生まれ出た日本語の妙(たえ)なる小世界である。日本語、と外からの目線でいうよりも、内輪向きに国語、と呼んだほうが多分しっくりくる、繰り返し読み愉(たの)しめる、細やかな文章。
 だがそこには異なるものの影が映りこんでいる。空襲の記憶、半ば封印されていた祖父の故郷・広島の物語が、父の葬儀をひとつの契機として確かめられ、静かに織りこまれていく。あの日、父は広島に疎開していた。これはひとつの原爆小説でもある。
 第2次大戦と敗戦の記憶は日本文学の風土になったのだとこれを読んでおもった。生々しい傷、異物として抱きつづけた経験は、70年を経て日本語の体組織にとりこまれ、くっきり跡を残しつつもなめらかにつながった。痛みは薄らいでいく。でも自らの一部になったこの傷が、忘れられることはない。
 『出来事の残響』は原爆文学と沖縄文学からいくつかの作品を、戦後日本の読者が「自分のものではない痛みを受け取る」場として論じる。最初の三章は大田洋子論。「被爆者の個人的な痛みや絶望を描く」「文学的な価値の低い」私小説と批判され、あまり読まれなくなった作家をこうして見直すと、60年前の日本を支配していた気分がよく見えてくる。文学的な価値とは、なんなのか。まさにそれを考えさせられる。
 アメリカ中西部で一学期、翻訳で日本の女性作家たちを読む授業をしたとき、大田洋子をとりあげた。アメリカを許せない、という主人公のことばに、日本文学など読んだこともなかった学生たちがうなずいた。こんなことがあったら、自分もそうおもう、と。それもまた文学の力だ。
    ◇
 講談社・1620円/ながの・まゆみ 作家▽インパクト出版会・2592円/むらかみ・ようこ 成蹊大学特別研究員。

2017年4月19日水曜日

たすけて、おとうさん [著]大岡玲

■得体の知れぬ 重く深いこわさ

 著者が『ピノッキオの冒険』など誰もが知る名作を読み、その解釈を下敷きにして新しい物語を紡ぐ12の短篇(たんぺん)集。
 やわらかな語り口とひらがなの多い文章は童話風で、内容は自己とは何か、社会的成功とは、男と女は、など多岐にわたる。短時間で読み通せるがいったん本を閉じ、書評と創作とを一度に楽しめたなと、それで終われる人はまずいまい。得体(えたい)の知れぬ何ものかに引っかかり二度、三度読む。この違和感は何だろう、これは何を意味するのだろうとくり返し読む。それくらい本書は重く深く、こわい。
 書評とは、ここにこれほどにすばらしい本があると紹介できる喜びが一方でありつつ、おまえは本当に内容を理解しているかと厳しく問われる営為である。著者は私には想像できぬほど(様々な意味で)豊かな環境の中で育っていて、だからこそなしえる描写が本書のそこかしこにある。かかる著者との対峙(たいじ)は、真底(しんそこ)こわかった。だから、「たすけて、おとうさん」。
    ◇
 平凡社・1944円

2017年4月18日火曜日

わたしの土地から大地へ [著]セバスチャン・サルガド、イザベル・フランク

■都市と異なる視座、問いかけ

 サルガドの写真がすごいのはわかる。ブラジルの金鉱掘り、ルワンダの難民、大規模製造業の手仕事、自然保護区の生態系。地球的規模で撮影された写真は一目で記憶に焼き付くほど強く、世間の高い評価を得ている。だがその評価を少しばかり疑う気持ちも私の中にはあるのだ。
 一九四四年、ブラジルに生まれ、軍事政権下で抗議活動をしてパリに亡命。経済学者から写真に転向し、以来パリを拠点に活動している。
 家はブラジル内陸部の谷で農園を経営していた。風景は大きく、光は多彩で、移動は徒歩しかない。金持ちも貧乏人もいない自給自足生活。大自然のなかで人が調和ある暮らしをしていた光景が、彼の記憶の根底を支えているのがわかる。
 写真は声の小さい揺らぎやすいメディアだという認識を私は持っている。それを思うと彼の写真は言葉に接近しすぎのように思えたが、これはもしかしたら彼と私の視覚体験の違いのためかもしれない。現実を写し撮る写真では撮り手の視座が周囲の現実に左右される。動きが静止した彼の構図は大自然の中で人の動きが小さく見えることと無関係ではないし、地球的規模の撮影も故郷で長距離移動してきた身には親しい。貧困問題に敏感なのも南半球出身の知識人なら当然だし、アフリカへの関心の高さも故国との生活習慣の近さを思えば納得する。
 つまり、彼の写真はポルトガルの国土に匹敵するほど巨大な故郷の谷からすべて始まっているということだ。世界の中心が人間にあり、速度ある変化を生み出している都市とは異なる視座がそこで育まれ、ブラジルが工業化に向かった青春期に抱いた疑問が生涯のテーマになった。サルガドの写真のすごさは審美的価値にあるのではない。一亡命者として自分の出自と時代に問いかけてきた生き方のすごさなのである。
    ◇
 中野勉訳、河出書房新社・2592円/Sebastiao Salgado,Isabelle Francq
 サルガドはブラジル出身の写真家。

2017年4月17日月曜日

朝顔の日 [著]高橋弘希

 肺を病んで入院した妻を見舞う夫。医者から、身体だけでなく咽(のど)も「安静に」と言われ、若い夫婦の会話は絵画帳での筆談になった。胸郭成形手術を勧められた妻は、ある日、夫を散歩に誘い出し、そっと絵画帳に書く。手術を受けたら「その日に死んでしまふ気がするのです」。昭和16年12月8日の出来事も挟み込まれるが、戦争の足音は遠く、物語は静かに進む。しかし、背景に退いたはずの戦争がときおり、牙をむく。同時に、夫婦の会話は静かに密度を増していく。抗(あらが)いがたいものに意思を持って抗しているわけではない。しかし、流されているわけでもない。そんな日常の生活が描かれている。そこにこそ人生の真実がある、とでもいうように。
    ◇
 新潮社・1512円

2017年4月16日日曜日

70年代シティ・ポップ・クロニクル [著]萩原健太

 日本のポップシーンにおける「奇跡的に濃密な5年間」。それは、はっぴいえんどが『風街ろまん』を発表した1971年から、シュガー・ベイブが唯一のアルバム『SONGS』を出した75年前後にかけてだったと、56年生まれの著者は位置づける。
 ロック喫茶に通い、輸入盤を吟味しながら英米音楽の最先端を追いかけた記憶とともに、そんな空気の中で進化をとげたバンドやミュージシャンとの出会いを振り返る。事件のような興奮を感じさせた南佳孝、吉田美奈子、荒井由実、久保田麻琴、鈴木慶一とムーンライダーズ——。未知の音楽を知る喜び、その出会いを引き寄せるためのヒントに満ちた私的ポップ論だ。
    ◇
 Pヴァイン・1836円

2017年4月15日土曜日

颶風の王 [著]河崎秋子

■馬と一族の宿命、体感的に描写

 馬との宿命的な関わりを、こんなふうに大胆且(か)つ体感的に描いた小説がかつてあっただろうか。河崎秋子『颶風(ぐふう)の王』は、馬とともに歩む一族の、六世代にわたる足取りを追いかける作品だ。
 舞台は東北そして北海道。時代は、明治から平成へ。新天地での仕事を求めて、東北から北海道に移住する捨造は、母から受け取った紙切れを読む。そこには、捨造が生まれる以前のこと、雪崩で遭難した母がいかにして生き延びたかが綴(つづ)られていた。一頭の馬と遭難した母は、雪の中、とうとう大切なその馬を食べて命を繋(つな)いだのだ。凄絶(せいぜつ)な場面だが、心打たれる。
 時は移る。捨造とその家族は、根室の沖に浮かぶ花島で放牧させていた馬を失う。台風で道が崩壊し、馬たちは崖上に取り残されてしまったのだ。崖上の馬たちはそこで生き、繁殖し、野生化していく。島に置き去りにした馬を、年月が経っても気にかけ続ける和子は捨造の孫。その孫であるひかりは、現代を生きる大学生。馬との関係は祖母から聞かされている。
 「ひかりから数えて五代前の女性は、冬山で遭難した際、馬を食べて生き延びたのだそうだ。真偽については確認しようもないが、多少の誇張はあってもあり得ない話ではないとひかりは思っている」。真に迫る描写で肉感的に描かれた出来事が、五代後の子孫には伝説めいたこととして伝わる。この伝承と伝播(でんぱ)の描き方も、興味深い。
 ある日、花島にまだ馬が生きていることを知ったひかりは、その調査に参加し、確認しに行く。そして生き残った最後の一頭と出会う。馬と人の辿(たど)ってきた道が時を超えて重なり、また離れる。感動の波紋が胸にひろがる。著者は、羊飼いをしながら小説を執筆している。その経験に裏打ちされた細部と、ずしりとした手応え。スケールの大きさとともに、近くも遠くも眺める視線をもつ小説だ。
    ◇
 角川書店・1728円/かわさき・あきこ 79年生まれ。羊飼い(酪農に従事)。本作で三浦綾子文学賞。

2017年4月14日金曜日

いないも同然だった男 [著]パトリス・ルコント

 地味で平凡、誰にも嫌われず、でも好かれない。そんな男が恋をした。
 あこがれの美女の気を引くために、男は奇策に打って出る。泳いで英仏海峡を渡ってみせれば、彼女もあっと言うだろう。
 ばかばかしくて、非現実的な物語だ。でも、読者は気づくだろう。男の途方もない挑戦が、世の孤独な人々が歯をくいしばって歩む人生と重なることに。泳ぎながら男が流す涙が、誰もが感じたことのある、社会の理不尽さへの怒りと似ていることに。
 著者は「仕立て屋の恋」「髪結いの亭主」で知られるフランスの映画監督。まさに映画のシーンのように印象的な最後の場面は、やさしく、そしてほろ苦い。
    ◇
桑原隆行訳、春風社・1944円

2017年4月13日木曜日

岩波新書新赤版1000点に際して

ひとつの時代が終わったといわれて久しい。だが、その先にいかなる時代を展望するのか、私たちはその輪郭すら描きえていない。20世紀から持ち越した課題の多くは、未だ解決の緒を見つけることのできないままであり、21世紀が新たに招きよせた問題も少なくない。グローバル資本主義の浸透、増悪の連鎖、暴力の応酬、世界は混沌として深い不安の只中にある。

現代社会においては変化が状態となり、速さと新しさに絶対的な価値が与えられた。消費社会の深化と情報技術の革命は、種々の境界を無くし、人々の生活やコミュニケーションの様式を根底から変容させてきた。ライフスタイルは多様化し、一面では個人の生き方をそれぞれが選びとる時代が始まっている。同時に、新たな格差が生まれ、様々な次元での亀烈や分断が深まっている。社会や歴史に対する意識が揺らぎ、普遍的な理念に対する根本的な懐疑や、現実を変えることへの無力感がひそかに根を張りつつある。そして、生きることに誰もが困難を覚える時代が到来している。

しかし、日常生活のそれぞれの場で、自由と民主主義を獲得し実践することを通じて、私たち自身がそうした閉鎖を乗り越え、希望の時代の幕開けを告げてゆくことは不可欠ではあるまい。そのために、いま求められていること――それは、個と個の間で開かれた対話を積み重ねながら、人間らしく生きることの条件について一人ひとりが粘り強く思考することではないか。その営みの糧となるものが、教養に外ならないと私たちは考える。歴史とは何か、よく生きるとはいかなることか、世界そして人間はどこへ向かうべきなのか――こうした根本的な問いとの格闘が、文化と知の厚みを作り出し、個人と社会を支える基盤としての教養となった。まさにそのような教養への道案内こそ、岩波新書が創刊以来、追及してきたことである。

岩波新書は、日中戦争下の1938年11月に赤版として創刊された。創刊の辞は、道義の精神に則らない日本の行動を憂慮し、批判的精神と良心的行動の欠如を戒めつつ、現代人の現代的教養を刊行の目的とする、と謳っている。以後、青版、黄版、新赤版と装いを改めながら、合計2500点余りを世に問うてきた。そして、いままた新赤版が1000点を迎えたのを機に、人間の理性と良心への信頼を再確認し、それに裏打ちされた文化を培っていく決意を込めて、新しい装丁のもとに再出発したいと思う。一冊一冊から吹き出す新風が一人でも多くの読者の許に届くこと、そして希望ある時代への想像力を豊かにかき立てることを切に願う。(2017年4月13日)

神秘列車 [著]甘耀明

■浮気な神さま、懐かしい郷土

 台湾の現代作家、甘耀明(カンヤオミン)の短編集。生まれ故郷の苗栗(ミャオリー)県が主な舞台だ。土地の神さま・伯公(バッゴン)の夜遊びを止めようと(!?)、廟にお妾(めかけ)さんの神像を迎え入れる村長。とめどなくズルズル喋りつづける素麺婆(そうめんばあ)ちゃんと、彼女の受け皿である洗面器おじさん。山の獲物を売る漢人と、そこに集まる先住諸民族。不思議な伝説や箴言(しんげん)を語り、にょきにょき伸びていくお話の木にアメリカのロケットやアントニオ猪木まで接ぎ木してしまう、そんな超ローカルで魔術的、なのにごくリアルでグローバルな人々の物語。魅了される。
 前書きによれば、作家の祖母は客家(はっか)人だが、先住民族の住む山地から嫁いできたそうだ。隣人の物語を彼女は自然と聞きおぼえたのだろう。甘耀明の文体は客家語を多用するだけでなく、台湾の多民族多言語文化をよく反映し、複合的であるという。最初はやや生硬に感じた訳文も、漢字文化を共有する日本人ならではの手法で原文の特徴を巧みに伝えていることが次第にわかり、とても楽しくなった。
 祖父が乗ったという幻の列車を少年が探しに行く表題作は、政治の暴力による家族の分断を一瞬の美しい映像に凝縮し、映画のよう。しかしやはり「伯公、妾を娶(めと)る」のわけのわからなさがわたしにはおもしろい。浮気な神さまに村人たちは大笑い、口が「茶碗くらいに大きくなって、おかずなしでもご飯を蒸籠(せいろ)三つ分はゆうに平らげそう」。だが客家の伯公は、大陸中国の福建からきたお妾さんとはことばが通じないことが発覚。大問題だ! しかし目下、小学校では外国人花嫁のための客家語クラスで「ベトナム、インドネシア、タイ、マレーシア、ミャンマー、カンボジア、大陸など八か国女性部隊」が勉強中。伯公のお妾さんもここで勉強すればいいのだ。
 大きく変化しながらも物語をつないでいく人々がいる。懐かしい郷土が続いていくとはそういうことなのですね。
    ◇
 白水紀子訳、白水社・2052円/カン・ヤオミン 72年生まれ。台湾の作家。『殺鬼(鬼殺し)』が来年、邦訳予定。

2017年4月12日水曜日

劉邦(上・中・下) [著]宮城谷昌光

■果敢に動き決断、辛労分かち成長

 人は置かれた環境から多大な影響を受ける。同じく「百金を盗んだ」二人がいても、環境の違いにより一人は死刑になり、一人は無罪になる。生き生きとした歴史小説の叙述に、時代への深い洞察が必須である理由がここにある。
 宮城谷昌光は、古代中国を描ける稀有(けう)な書き手である。かつて『重耳(ちょうじ)』を読んだ時、私は感動して呻(うめ)いた。そこには春秋という時代がみごとにあり、時代に根ざした人物があった。以来、私は愛読者の一人となり、安んじて宮城谷の世界に遊ばせてもらっている。
 本書の主人公の劉邦は現在の江蘇省徐州市豊県に生まれ、若き日は侠客(きょうかく)として生きた。時は秦の始皇が中国を統一し、苛烈(かれつ)な政を布(し)いていた頃。縁あって沛(はい)県・泗水(しすい)の亭長(警察分署長)に納まったが、下級官吏に過ぎなかった。
 やがて始皇帝が没し世が乱れると、40代半ばを過ぎた劉邦がようやく歴史に登場してくる。彼は沛県の県令となって地域をまとめ、反乱軍に加わった。彼とその仲間たちは失敗を繰り返しながら、次第に軍政に習熟していく。反秦勢力の中で頭角を現し、勇将・項羽と競いながら、ついには秦の本拠である関中を占拠した。
 殊功を挙げた劉邦だが、いったんは左遷されて西方の漢中王に任じられる。だが、そこから東進。英布や彭越(ほうえつ)ら外様の勢力を味方に付けながら項羽を追い詰める。そしてついに垓下(がいか)の戦いで項羽を滅ぼし、漢帝国の皇帝に即位する。
 本書があまり重視しない将軍・韓信がいう。私には兵を率いる才がある。兵は多いほどいい。陛下(劉邦)は十万の兵の将がせいぜいである。だが陛下は「将に将たる」才能をもつ。だから天下が取れたのだ、と。つまり劉邦は良く言えば大器であるが、ありていにいうなら、軍事の才に乏しい。
 劉邦と項羽の戦いは、これまで何度も小説に描かれてきた。その際、劉邦像の基軸となったのが、この韓信による評価である。卓越した軍才を顕(あらわ)す項羽に対し、劉邦は凡庸である。周囲に奉られる人であり、受け身の人にすぎない。しかし、本書は全く異なる。
 「宮城谷」劉邦は、果敢に動く。自ら考え、決断する。沛や豊など郷里の友や配下と手を携え、少しずつだがともに成長していく。
 「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる」。劉邦には功臣粛清のイメージがつきまとうが、その理解は一面的にすぎる。蕭何(しょうか)も曹参(そうさん)も樊かい(はんかい)も周勃(しゅうぼつ)も、古く劉邦と辛労を分かち合った人々は、漢で重きを成した。憎んで余りある雍歯(ようし)でさえ許された。
 劉邦とその仲間たち。時宜を得なければ一地方に逼塞(ひっそく)して終わったであろう人々の大いなる飛翔(ひしょう)を描く本書は、人間のもつ可能性を、高らかに歌いあげている。
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 毎日新聞出版・各1728円/みやぎたに・まさみつ 45年生まれ。出版社勤務のかたわら創作を始め、『天空の舟』で新田次郎文学賞、『夏姫春秋』で直木賞、『重耳』で芸術選奨文部大臣賞。ほかに『奇貨居くべし』『三国志』など著書多数。

思想の哲学

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