2017年6月29日木曜日

サッカーが世界を解明する [著]フランクリン・フォア

■「地域の固有性」を衝撃的に示す

 またワールドカップがやってきた。世界中が注目する、地球上で最大級の人類の祭典。サッカーは世界の共通語だ。サッカーがうまければ、誰だって、どの社会でもスターになれること間違いなし!
 いまやプレーヤーの労働市場は国際化し、フーリガンのファッションさえ国境を越えて広まった。しかし、サッカーという言語で綴(つづ)られる物語は国によってかなり異なる。華麗な個人技のブラジル、組織とスピードの日本といったプレースタイルだけの話ではない。サポーターのあり方、そして政治や経済との関(かか)わり方には、地域の固有性が色濃く反映されている。
 ワシントンで政治記者をしている著者は、仕事を八カ月休み、サッカーのグローバル化を取材する旅に出た。その体験に基づき書かれた本書は、日本のファンにとっても衝撃的な内容に満ちている。
 鈴木隆行選手が所属するレッドスター・ベオグラードのサポーター集団は、民族浄化の突撃部隊だったことがある。そして中村俊輔選手が活躍するセルティックは、宗教上の偏見が残るクラブ所在地のグラスゴーのみならず、アイルランドのカトリック系住民の期待をも背負って戦う。著者の観察によれば、サッカーは「伝統の受け皿」として、民族のアイデンティティに活気を与えているのだ。
 それに加え、イタリア・サッカーの不正疑惑は最近になって事件化したが、ペレも含めブラジルの腐敗もはなはだしいという。そうしたサッカービジネスに伴う負の側面があるのは事実だ。その一方で、女性をサッカーから締め出していたホメイニ革命後のイランでも、西欧に対する独自性を価値としてきた米国でも、サッカーという普遍言語が社会に浸透しつつある。
 サッカーファンとしてはこの本を読みたくなかったと思うほど厳しい現実もある。だが「グローバル化」対「地域の固有性」という大問題を、サッカーという切り口で論じた著者の手法は見事に成功したといえよう。
 さあ、誰か本書のアジア版を書いてはくれまいか。出たら必ず読むことを誓うから!
 評・高原明生(東京大学教授)
   *
 伊達淳訳、白水社・2415円/Franklin Foer アメリカの政治記者。「ニュー・リパブリック」誌編集主任。

2017年6月28日水曜日

犯罪被害者の声が聞こえますか [著]東大作

■尊厳ある主体の誇りをかけた闘い

 読み進めながら、何度となく胸がふさがれた。理不尽な犯罪によって家族を奪われ、あるいは自らが傷つけられた被害者が、なぜこんなにも、二重三重に苦しまなければならないのか……。二〇〇〇年の全国犯罪被害者の会結成から二〇〇四年の犯罪被害者等基本法成立までを描いた本書は、まずなにより、悲しみと怒りに満ちたノンフィクションとして読まれるべきだろう。
 一面識もない男にガソリンを浴びせられて火をつけられ、全身に火傷(やけど)を負った女性に、病院は治療費を執拗(しつよう)に請求する。加害者に支払い能力がないのなら被害者が自ら治療費を負担すべきだ、というのが病院側の論理だ。宅配便の配達を装った男に妻を殺害された夫は、加害者やマスコミには開示される捜査記録や公判記録を被害者はいっさい見ることができないという司法の現実に愕然(がくぜん)とする。本書は、そんな被害者二人——岡本真寿美さんと岡村勲さんの〈誰からの支援も得られず、制度の不条理の中で、耐え続けてきた〉姿を軸に書き進められる。いわば「個」の戦い(いや、「孤立無援」の「孤」のほうがふさわしいだろうか)が、苦しみを共有するひとたちとの横のつながりを得て、国を動かしていくまでのドラマなのだ。
 だが、本書は決して被害者の感情のみを押し出したノンフィクションではない。書き手は、犯罪被害者をめぐるドキュメンタリー番組を何本も手がけてきたNHKの元ディレクター。〈当時も今も、私は犯罪被害者の方々に「お気持ち分かります」と述べたことはありません。それは、あまりに不遜(ふそん)に思えるからです〉と書く著者は、被害者の苦しみに安易にべったりと寄り添うのではなく、理解と情熱ある取材者としての距離を保ったうえで、加害者や国への単純な憤りの先にある、一回り大きな問題を読者に提起する。
 〈常に「国家」対「被告人」という図式で、刑事司法を考えていた〉ために〈その裏側で、被害者が置き去りにされている〉司法制度に対する疑義——特に終盤、「基本法」制定前に「権利」と「支援」の文言をめぐって「被害者の会」が関係省庁と対峙(たいじ)するくだりは、〈事件の当事者、つまり「尊厳を持った主体」〉である被害者の矜持(きょうじ)を熱く示して、「被害者=かわいそう」という安直かつ無礼な図式に貶(おとし)められることを毅然(きぜん)として拒む。その結果、「基本法」は〈被害者が尊厳を持って生きていくことが、「権利」として、日本ではじめて認められた〉画期的な法律となったのだ。
 もちろん、現在形で読者に問う書名が象徴するとおり、〈この制度に魂を入れる作業は、これから〉である。だからこそ、本書は「被害者の会」「基本法」に限定された物語ではないのだ、とあえて言っておく。〈尊厳を持った主体〉の誇りをかけた闘いの記録は、読者自身が確かな尊厳を持って生きていくことへの問いかけでもあるはずだ。自他の尊厳をともに認めてこそ、僕たちのまなざしは、対岸の火事としての「かわいそう」の図式を超えられるのだろう。
 評・重松清(作家)
    *
 講談社・1995円/ひがし・だいさく 69年生まれ。元NHKディレクター。カナダのブリティッシュ・コロンビア大大学院生。

2017年6月27日火曜日

ヘルメットをかぶった君に会いたい [著]鴻上尚史

■今ここにいることのリアルさ求めて

 読みながら、幾度も本の表紙に巻かれた帯を確認した。これは小説だ、と帯にはある。
 昔の曲を集めたCD集のCMで、作者は学生運動が盛んだった時代の映像を見る。ヘルメットをかぶって微笑(ほほえ)む女性に惹(ひ)かれ、彼女をさがしはじめる。匿名の脅しを受けながらも、つてをたどって彼女を追っていくうち、現在の彼女の消息がじょじょに明らかになっていく。その筋立てとは別に、学生運動が終わったあとに大学生になった作者の、高校時代、大学時代の回想がある。学校全体を覆っていた無気力と管理を、そして自分が間に合うことなく終焉(しゅうえん)を迎えた学生運動というものを、作者は正面から凝視するように書いていく。
 六〇年代から七〇年代にかけて起きた学生運動、その正体がなんであったのか、理屈でも理論でもなく私もまた知らない。しかしその時代、国家が、政治が、世界が、ある学生たちにとっては「触れることのできる」何かだったのではないかと考える。現在の日本の若者の、国や政治や世界情勢に対する無関心は世界的に見てもめずらしい。この無関心は、それらが決して「触れられない」ものだという諦観(ていかん)からはじまっているように思えてならない。たとえ錯覚だとしてもそれらに触れることができると信じられた時代を、知りたいと切望したことが私もある。余分な情報はいらない、いちばん純粋な部分を知りたいと。本書の作者とまったく同じように。
 作者が追い求めているのは、次第に、ヘルメットの彼女ではなく、今の時代に自分がいるということの、体感としてのリアルさであるように思えてくる。読み進むうちこれがフィクションでもそうでなくてもどうでもよくなってくる。重要なのはそんなことではないと気づかされるのである。作者は彼女から視線を外し、違う方法で時代に触れようとする。それはリアルへの渇望である。時代との接点への、強烈な希求である。それほどまでに、今の時代は私たちから遠い。本当に触れることはできないのか、世界と無縁でいるしかないのか。この小説はそう叫んでいる。
 評・角田光代(作家)
    *
 集英社・1785円/こうかみ・しょうじ 58年生まれ。劇作家、演出家。本作が初めての小説。

2017年6月26日月曜日

〈妻〉の歴史 [著]マリリン・ヤーロム

■劇的な変容の先の理想めざし

 現在、アメリカでは第1子の約4割は婚外子で、結婚の48%は離婚に終わる。伝統的結婚制度の形骸(けいがい)化が進み、〈妻〉は絶滅の危機に瀕(ひん)した種とさえ言われる。著者は、スタンフォード大学の女性・ジェンダー研究所上級研究員。そうした状況だからこそ、歴史のこの時点で遺産を総ざらいすることは有意義と考えた。
 政治、経済、文学、風刺画、広告、さらに市井の女性が残した手紙・日記など膨大な資料を駆使して、古代ギリシャでの「結婚」制度の誕生、キリスト教世界における結婚と生殖の義務化、中世ヨーロッパにおけるロマンチシズムの付与、戦時下の妻の役割、現代アメリカ社会における個人主義の進行など、壮大なスケールで〈妻〉の劇的な変容ぶりを浮き彫りにした。
 「規範も禁制もほとんどないこんにちにおいて妻になるということは、実にクリエイティブな努力を要する」と著者は認め、「結婚における平等という理想に向かって屈せずに前進する勇気を持って」と呼びかける。46年間の結婚生活で、「妻」という小さな言葉の中に隠された有り余るほどの意味を知るに至ったとする、著者ならではの励ましなのかもしれない。
 評・多賀幹子(フリージャーナリスト)
   *
 林ゆう子訳、慶応義塾大学出版会・6090円

2017年6月25日日曜日

「正しい戦争」という思想 [編]山内進

■不断に問うための枠組み

 「正しい戦争」というフレーズだけで、拒絶反応を示される向きもあるかもしれないが、本書は、戦争の正当化や、まして美化を意図した作品ではない。むしろその逆である。
 本書を貫くのは、「正しい戦争」がありうる可能性を議論の正面に据えることで、二つの極端な立場を相対化する姿勢である。すなわち、一方の立場はすべての戦争を悪だとする絶対平和主義であり、他方の立場は戦争を利害だけで評価し、倫理的な正しさを問題としない「現実主義」である。なるほど両者はともに、眼前の戦争をめぐってしばしば喧(やかま)しく主張されるが、多くの場合に思考停止に陥りがちである。
 それに対して本書は、「正戦」や「聖戦」を称する戦争を前に、それが本当に正しい戦争であるのかと不断に問うための批判的枠組みとして「正しい戦争」を論ずる理論的・歴史的基礎を提供する。その問いかけこそが、普遍的価値や超越的価値に訴える戦争の言説がますます氾濫(はんらん)する今日において、より有効に戦争を抑止することにつながるからだ。
 憲法改正や在日米軍再編の論議が進むなか、広く読まれるに値する一書である。
 評・山下範久(北海道大助教授)
   *
 勁草書房・2940円

2017年6月24日土曜日

政治発展と民主化の比較政治学 [著]岩崎正洋

■多民族の共存と民主化

 かつて「工業化を通して近代化が進み、さらにグローバル化することで伝統的価値である民族や宗教をめぐる紛争が解消していく」という単線的な発展論が流行(はや)ったことがある。
 しかし、9・11以降の世界を見ると、グローバル化することで伝統的対立が解消されるどころか、むしろ民族や宗教をめぐる対立自体がグローバル化しているとさえ思われる。
 さらに、そうした発展論では、時として、米国型政治システムが理想であるとの主張が伴い、経済発展が民主主義をもたらすかの如(ごと)く論じられていた。
 しかし、現実には、工業化による近代化を目指した国の中には、経済発展のために国家権力の集中が必要として開発独裁になったケースも多い。
 本書は、そうした現状の中で「どうやって多民族が共存しながら民主主義を定着させることができるのか」という問題に関する膨大な文献を再構成し、見事に俯瞰図(ふかんず)を描ききった意欲的な力作である。
 本書を通して、第2次世界大戦後の発展途上国における民主化の変遷を知ることができるとともに、ともすれば個別国の研究に埋没しがちな地域研究を比較政治学に導くための理論的枠組みを学ぶことができる。
 評・小林良彰(慶応大教授)
   *
東海大学出版会・2730円

2017年6月23日金曜日

霊的人間-魂のアルケオロジー [著]鎌田東二

■日本にまだ「霊」は生き延びているか?

 この一冊は、アイルランドの海岸で孔(あな)の開いた石を拾うエピソードから始まる。自然の石笛である。吹いてくれと訴える声が聞こえる。
 石笛を吹く。するとその霊妙な音にみちびかれて、読者は時間と空間を越える不思議な旅路へ誘い出される。ヘルマン・ヘッセ、ブレイク、ゲーテ、本居宣長、上田秋成、平田篤胤、稲垣足穂、イエイツ、ラフカディオ・ハーン。決して任意に並べられた人名ではない。一筋の通い路でたがいに結ばれた「霊」の世界の遍歴なのである。
 ゲーテと本居宣長は「二卵性双生児」であり、宣長は「日本型ファウスト」だと大胆な断言を下すのも、深い確信から発している。詩を生み出す力は「精霊(ガイスト)」だとするゲーテの直観は、やまとうたを「言霊(ことだま)」の発現ととらえる宣長国学と相呼応している。比較文学風に類似を言い立てるのではない。同一の心性の働きを見て取っている。
 本書のキーワードをなす「霊」の字はモノと読む。モノとは何か。日本語で「品物」「悪者」「怨霊(まもの)」といろいろに使い分けられるこの言葉の多義性を、著者は「物質・物体(物)から人格的存在(者)を経て霊性的存在(霊)に及ぶ『モノ』の位相とグラデーションの繊細微妙さ」と表現している。別々の存在なのではない。全部がひとしくモノなのだ。コトが抽象的で無機質なのに対し、モノには、なつかしい独特の触感がある。カミよりも等級が低くて親しみやすい。
 宣長の「もののあはれ」にも、上田秋成の「もののけ」にも、モノは遍在する。平田篤胤はそれを学問の対象にしたし、稲垣足穂は近代社会でモノとの交信をこころみた異色の作家だった。『怪談』で有名なハーンには『神国日本』の著がある。空気が澄みきったこの美しい風土では、木にも草にも八百万(やおよろず)のモノが宿っている。
 山野に産業廃棄物が溢(あふ)れ、耳は政治的弁舌で塞(ふさ)がれた現代日本にも、まだモノは生き延びているのだろうか。本書は大丈夫と請け合ってくれている。人間がモノへの愛着を忘れずにいる限りは。
 評・野口武彦(文芸評論家)
   *
 作品社・1995円/かまた・とうじ 京都造形芸術大教授。宗教学者。著書に『翁童論』4部作など。

2017年6月22日木曜日

華族 [著]小田部雄次

■明治以降の特権階級、成立から消滅まで

 かつて鶴見俊輔は、50年代には逆コースの流れの中で、再軍備から「家」の復活まで、あらゆる戦前の制度への復帰が唱えられたのだが、唯一その復活が唱えられなかったのが華族制度だったと述べた。つまり明治以降の特権身分である華族制度は、それほど国民に不評判であったというわけだ。しかし今では華族は、洗練された消費文化の先駆者として関心を集めているように見える。
 華族については、明治初期の制度成立史の研究が充実しているのに比べ、明治中期以降に関する研究が少なかった。これは、その実態を明らかにする史料が乏しいためであった。1884年施行の華族令以降の華族の数についてはこれまで諸説があり、本書の成果の一つが、その総数を1011家に確定した点にあるということは、従来の研究の薄さを示すものだろう。
 華族というとそのイメージは、旧大名家、旧公卿(くぎょう)、維新の功臣の家柄であり、資産のある生活を送っているという姿である。しかし少数特権階級とはいえ、全部で1千家を超えるとなると、このイメージからはこぼれ落ちる華族も相当の数出現してくる。華族に取り立てられた叙爵の理由も、その時期によって異なっていた。特に明治中期以降になると、昔の家格や維新期の功績より、現在の国家への貢献が重視され、勲功華族の男爵に軍人が取り立てられるケースが増えてくる。そして軍人とのバランスをとるように、財閥の当主や多数の文官も叙爵されていく。
 華族の経済的基盤に着目し、その資産格差やその動揺の過程を追跡している点も、本書の特徴である。さらに必ずしも「親日派」ともいえなかった、朝鮮貴族(韓国併合に伴って、華族に準ずる身分として設定された)についても、取り上げている。これらの事実から浮かび上がってくるのは、著者の説明とはやや違って、単純に「皇室の藩屏(はんぺい)」とばかりは位置づけられない華族の実態であろう。近代日本の華族の成立から消滅までを叙述し、華族について考える手がかりを与える通史として、意義があるといえよう。
 評・赤澤史朗(立命館大学教授)
   *
 中公新書・987円/おたべ・ゆうじ 52年生まれ。静岡福祉大教授。日本近現代史。

2017年6月21日水曜日

江戸の橋 [著]鈴木理生

■変わらぬ愛が示す、東京が失ったもの

 橋と水のテーマは、これまで好んで文学的な都市風景論として語られてきたが、この
一冊は、情緒に流れず、技術面にこだわるところから新鮮な視界を開いて見せる。
 橋材にどんな材木が使われ、工事現場までどうやって運ばれるか。橋柱はどう打ち込むか。建設費は誰が出資し、誰がメンテナンスをするか。江戸の橋は動力がなかった時代に巨材、巨石を使いこなした土木技術の精華だったことがわかるし、昔から手抜きや民営化や崩壊事故といった問題の構図も出ているのが興味深い。
 かつて「橋」と「端」が同義語だった由来は、草創期の江戸では、たんなる語源ではなくて目前の事実だった。海岸を埋め立てて土地を造成し、堀を切り開いて分割する。川の流れを付け替える。常に新しいウオーターフロントができるから、「橋」とは対岸に向かって伸びる「端」に他ならなかった。
 取り上げるのは両国橋・新大橋・永代橋など隅田川に架けた橋、日本橋界隈(かいわい)の橋、銀座近辺の橋であり、著者はつつましく「江戸・東京の橋の全部を対象にしていない」とことわっているが、これら江戸の中心地域だけでも話題性はたっぷりある。
 若い読者の中には、外濠(そとぼり)通りが以前に文字通り江戸城外濠だったのを知らない人もいるのではないか。橋は消滅して、呉服橋・鍛冶(かじ)橋など地名にだけ痕跡を留めている。
 とりわけこんな一情景は、現代の東京が何を失ったかを示して余りあろう。
 明治大正の東京でも、日本橋の上にたたずむと、下流には「菱形(ひしがた)をなした広い水」(永井荷風)が連なり、江戸橋・思案橋、流れに交叉(こうさ)する堀割(ほりわり)の荒布(あらめ)橋・鎧(よろい)橋が一望できた。現在では日本橋川の上空が高速道路に蓋(ふた)をされ、その支柱が川の中に林立する「東京一の薄暗い水面」が排気ガスに煙っている。
 江戸の橋を昔の美しい姿で再現する行間には、現代日本の橋梁(きょうりょう)行政に対する静かな批判が秘められているが、それにもまして、今も変わらず生活の一部である橋と川への深い愛情がこもる。
 評・野口武彦(文芸評論家)
   *
 三省堂・1890円/すずき・まさお 26年生まれ。都市史研究家。著書に『大江戸の正体』など。

2017年6月20日火曜日

自治体発の政策革新-景観条例から景観法へ [著]伊藤修一郎

■先進自治体から国へのボトムアップ

 住宅地に突如、出現する巨大マンション。周囲との景観のバランスが崩れることなどお構いなし。特に、最近、従来は行政が行ってきた建築確認業務を民間検査機関でもできるようになってから、甘い検査がまかり通っている。
 これに対し、住民の環境権を守るために、自治体で景観条例を定めることが要請されているが、果たして実態はどうであろうか。本書は、現在のわが国における景観条例の制定と波及について、全国の事例を丹念に集めるとともに、景観条例を持つ自治体に対するアンケート調査を行って実証的に解明した好著である。
 その経過をみると、まず景観意識が高い住民や、それに応える首長や職員がいる先進的な自治体で条例が作られる。例えば、神戸市では異人館がある地区にマンションが立ち並ぶようになったことを契機に、職員や学識経験者が住民とともに都市景観条例を作成、制定した。そして、そうした先進条例を他自治体が模範として取り入れることによって全国に普及し、さらに国をも動かして景観法ができるという、まさにボトムアップ型のガバナンスの姿が浮かび上がって来る。
 つまり、「地域的なサービスは、地域の自己決定に基づいて供給される」という地方自治の原則を体現しているとも言えるが、裏を返せば、それだけ国の景観行政が遅れていることの証左でもある。
 また、たとえ景観条例ができても、その内容が「違反取り締まり」や「開発抑制」ではなく「景観誘導」である場合、その条例に従わない業者が出て来ることになる。
 ここでも問題になるのが、建築確認であり、東京にある民間会社が行えば、曖昧(あいまい)な解釈を含む建築基準法だけを考慮し、地元の条例は無視されることもある。耐震偽装問題でも明らかになったように、やはり建築確認業務は、地元の自治体が自らの条例に基づいて周囲の景観にも配慮して行うべきではないか。
 「建てる自由」という業者の意向ばかりが優先され、「環境を守る」住民の意向がないがしろにされがちなのが、日本の悲しい現実である。
 [評者]小林良彰(慶応大学教授)
    *
 木鐸(ぼくたく)社・3150円/いとう・しゅういちろう 60年生まれ。神奈川県職員などを経て現在、筑波大教授。

2017年6月19日月曜日

いま平和とは-人権と人道をめぐる9話 [著]最上敏樹

■「人間本位のリアリズム」を求めて

 「二〇世紀最後の一〇年間で、二〇〇万人以上の子供が殺され、六〇〇万人の子供が重傷か回復不能の障害を負いました」。米ソが巨費を投じて軍拡競争に励み、核戦争の一歩手前までいった冷戦も正気の沙汰(さた)ではなかったが、その後の世の中はいよいよおかしい。そんなことは言うまでもないのかもしれないが、もう一度繰り返すけれども、一〇年間で二〇〇万人の子供が殺されたという事実を突きつけられると改めて慄然(りつぜん)とする。二一世紀以降のアフガニスタンやイラクでの戦争、スーダン西部での虐殺や欧米でのテロはこの勘定に入っていないのだ。
 なぜ事態の悪化を止められないのか。誰がどうやって平和をもたらそうとしているのか。そもそも平和とは何なのか。この本が取り組むのはこうした基本問題だ。平和のためにある国連は、拒否権を有する安保理常任理事国の武力行使に対して無力である。そしていわゆる国際社会は、資源もなく、戦略的に重要でもなく、また白人のいない国での殺し合いを本気で止めようとしない。この現実に対して著者は、平和とは人間の日常性の確保であり、人権の問題だと訴える。そして「人間本位のリアリズム」にもとづき、不条理な格差を解消して人間の平和をつくり出すNGOの活動や、国境を超えて隣人たちと協力する地域共同体の出現を語る。
 こうした「市民派」的な議論に対し、理想主義だとの批判が現実主義者から浴びせられることは容易に予測できる。著者自身も、軍事的安全保障と人間の安全保障のどちらもが重要だという。しかし、力頼みの平和の限界は明らかだ。軍事力で平和が保たれるなら、パレスチナ問題などありえない。力は大事だが、他者を尊重する共生の思想が根を下ろさなければ平和は安定しない。
 だとすると、力を有する者こそ他者を尊重しなければならないだろう。欧米のマスメディアに乗り込み、安保理常任理事国を説得して共生を常識化できるだろうか。それができれば、日本の平和学のソフトパワーはすごい。
 [評]高原明生(東京大学教授)
   *
 岩波新書・777円/もがみ・としき 50年生まれ。国際基督教大学教授。著書に『国連とアメリカ』など。

2017年6月18日日曜日

裏社会の日本史 [著]フィリップ・ポンス

■貧窮者とやくざから歴史を俯瞰

 もちろん書き手によるけれど、海外の読者に向けて日本を紹介した本は国内の読者にも有効な場合が少なくない。あうんの呼吸でわかったような気になっている(でも本当はまるでわかっていない)事象が一から解きほぐされることで、霧が晴れるような気分がまま味わえるのだ。
 本書でいう裏社会とは、排除されることで漂泊の民となり、社会の周縁に押しやられた人々のこと。第一部で語られるのは中世の賎民(せんみん)に起源を持つ被差別民、明治以降の下層労働者、横山源之助が『日本之下層社会』で描いたような貧困層、そして著者が「どんづまりの街」と呼ぶ現代の山谷や釜ケ崎の住民までを含む「日陰の人々」である。
 一方、第二部の主役は「やくざ」である。これには博徒とテキヤの二系列があると著者はいう。江戸の侠客(きょうかく)。明治の義賊。極右思想と結びつき軍との協力関係さえ築いた戦前の「愛国的やくざ」。そして、戦後の政界や財界との結びつきを強めた「黒幕」や三大暴力団の「親分」。
 貧窮者とやくざが一冊の中に同居する。そこがこの本のキモというべきだろう。〈社会は「良き」貧者と「悪(あ)しき」貧者、また「おとなしい」放浪者と「手ごわい」放浪者との区別には無関心だった〉と著者は書く。
 〈表面上は国家への異議を唱えているようでいて、結局は並列的かつ補完的な国家のコマ割だった〉と断罪されるやくざと、〈最後の偉大な拒絶のヒーロー〉かもしれない物言わぬ貧窮の民。
 最終的に下される判断は逆だけれども、そこには確かに連続性が認められるのだ。17世紀から20世紀末までを俯瞰(ふかん)した論証は緻密(ちみつ)で、「へぇへぇへぇ」の連続。
 著者のフィリップ・ポンス氏は、04年4月のイラク邦人人質事件の際、人質になった3人の若者を力強く弁護する論評を「ルモンド」紙に載せ日本の世論に鋭い一撃を加えた、あの東京支局長である。とかく「同質性」が強調される日本社会の多様性を浮き彫りにし、〈日本列島は不服従の者たちの住処(すみか)でもある〉ことを示した快著である。
 [評]斎藤美奈子(文芸評論家)
   *
 安永愛訳、筑摩書房・4515円/Philippe Pons 42年パリ生まれ。「ルモンド」東京支局長。

2017年6月17日土曜日

スローフードな日本! [著]島村菜津

■食の在り方を根本から問う

 イタリアで始まった「スローフード」運動の紹介者が、日本に舞台を移し、この国の食の在り方を根本から問い直す力作だ。
 豊かになった日本は、イタリアと並ぶグルメ大国に見える。だが実は、この40年、急激な社会の変化で、日本の食を支える構造は空洞化し、危うい状況にある。食料自給率は先進国では最低クラス。農薬、食品添加物を多用し、遺伝子組み換え食品に頼るから、安全性もあやしい。大規模な生産と流通を優遇する国の政策で、農家や個人店舗は苦しく、農村風景も商店街も荒廃する。
 食を問いつつ、生活意識ばかりか現代日本の環境問題、さらにムラおこしの経済問題に鋭く切り込むジャーナリスト感覚は見事だ。
 嬉(うれ)しいのは、こうした厳しい現状に抗して、徹頭徹尾おいしいものを作るべく、土地に根差して頑張る人達(たち)が各地にいることだ。著者は北海道の農場から沖縄・宮古島の農家民宿まで、本物の食にこだわる小さな生産者達の活動を紹介し、エールを送る。公害を克服し、環境から地域再生を進める水俣の食のリポートも感動的だ。
 食を通じた文明批評でもある本書は、人と人、人と自然の関係を取り戻し、日本の社会が真の元気を回復する道を示してくれる。
 評・陣内秀信(法政大教授)
   *
 新潮社・1575円

2017年6月16日金曜日

14階段-検証 新潟少女9年2カ月監禁事件 [著]窪田順生

■猟奇事件? の闇を現場で追う

 最近、事件取材がむずかしくなったと聞く。現場で聞き込みをしていても、個人情報保護を理由に協力を拒まれることが増えたというのだ。その一方で、ネット上に当事者の写真や日記がさらされる。
 なんか変だ。それでも現場を歩けば何かがつかめると信じたい。桶川ストーカー殺人事件のように、一人の記者の執念が事件解明の突破口を開くこともあるのだから。
 本書を手にしたのも、当時28歳の男が9歳の少女を9年2カ月にわたり監禁した部屋に、初めて足を踏み入れた貴重な報告であるためだ。同じ家に住む男の母親がなぜ少女の存在に気づかなかったのかという点にも、一定の事実を読者に提示している。
 暴力に耐え、息子のため競馬雑誌を買う「従順な下僕」のような母親の姿がある。歳の離れた亡き父親もまた、軌道をずれていく息子を叱(しか)ることのできない人だった。当初報道されたような、少女わいせつの前科をもつ「引きこもり」男の異常犯罪というイメージからこぼれ落ちた、男とその家族の姿が見えてくる。
 そして読者はついに、20年以上、母親が上ることはおろか見上げることも許されなかった14段の階段を上り、「王国」の全貌(ぜんぼう)を知る。そこで発見した男の「宝物」と父親の遺品から父子関係と事件との因果を探る仮説はやや強引だが、案外核心を突いている点もあるかもしれない。
 しかし、事件の闇は依然深い。少女が発見された日、保健師に促されて2階に上った母親に少女はこう話しかけたという。「お母さんですか?毎日ご飯を作っていただいて、どうもありがとう」
 本書はまだ、この言葉の本意には到(いた)り着いていない。
 著者は三たびの現場に立つだろうか。一度目は写真週刊誌記者、二度目はフリーライターとして現場に立った著者は、取材者としての逡巡(しゅんじゅん)を時折吐露している。母親に説教するように質問を重ねる不遜(ふそん)さに気づき、言葉を呑(の)み込む場面もある。本筋とは無関係だが、人の人生を奪うという不条理に心底憤り、迷い、行動できるのは、今の時代、もはや希有(けう)な才能と思える。
 評・最相葉月(ノンフィクションライター)
   *
 小学館・1575円/くぼた・まさき 74年生まれ。ノンフィクションライター。雑誌編集にも携わる。

2017年6月15日木曜日

世のなか安穏なれ-『歎異抄』いま再び [著]高史明

■親鸞との「つなぎ目」探す思索と求道

 高史明は死ぬことをずっと考えてきた人である。
 極貧の在日朝鮮人の家に生まれ、三歳で母と死別し、父親が首をくくろうとするのを泣き叫びながら制止しようとした人である。
 学歴も何もないまま、当時の過酷な朝鮮人差別の世に投げ出され、作家として自立しかけたとき、深く深く愛していた一人っ子のご子息が自死を遂げてしまう。これで誰が生きつづけられようか。
 親鸞の『歎異抄』と出会って、著者はかろうじて生への道を歩み出した。爾来(じらい)、三十余年に及ぶ思索と求道の結果が、この講演録である。
 会話体とはいえ、わかりやすい本ではない。いや、われわれの「わかる」という骨がらみの合理主義をいったん捨て去らなければ、本書を「わかる」ことはできないのかもしれない。ところが、読みはじめるや、活字が目に食い込んで離れなくなる。
 とりわけ、作家・野間宏の文学と親鸞とのかかわりを論じた章に、異様な迫力がある。現代人の生き難さを見抜き、『歎異抄』を読み込んでいた野間でさえ、私たちと、親鸞の説いた念仏とを結びつける「つなぎ目」を見いだせなかったのではないかと、著者は問う。そのつなぎ目を求める私の前に、だが、著者は『歎異抄』などの仏典の言葉を原文のまま示して、「わかる」ところまでは導かない。
 現代人の「超えがたい奈落」ゆえなのか。そこが「信心」と言われればそれまでなのだが、著者もまたつなぎ目を万人に「わかる」ように伝える方途を、いまだ持ちえていないのではないか。
 亡きご子息は芥川の『蜘蛛(くも)の糸』を読み、感想文を書き残していた。しかし、芥川の描くお釈迦さまの姿はおかしいと、著者は言外に述べている。お釈迦さまなら、再び地獄の血の池に落ちたかん陀多(かんだた)を、極楽の上から哀れむのではなく、自ら地獄に降りて共に苦しまれるはずだというのである。私を含む“かん陀多”たちが、いくら「信じない」「信じられない」と言おうが、お釈迦さまはなおどこまでも寄り添ってくださると著者は説きつづけてやまない。
 評・野村進(ジャーナリスト)
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 平凡社・1890円/こ・さみょん 32年生まれ。作家。著書に『いのちの優しさ』など。 

2017年6月14日水曜日

韓国の教育と社会階層-「学歴社会」への実証的アプローチ [著]有田伸

■高学歴で目指す「社会的威信」の獲得

 サッカーのワールドカップ共同開催や韓流ブームの頃に好転した日韓関係も、最近では冷え込む話題が増えている。学者レベルでも、日韓関係の専門家を除けば、両国とも、欧米に目が向いている者が多く、隣国への関心は高くない。
 しかしながら、好むと好まざるとに関(かか)わらず、日韓両国が共通して抱える問題は数多い。日本で問題になっていることは韓国でも深刻な課題になっていることが多く、隣国を研究することで得るものは多いはずである。
 本書のテーマである、学歴社会もその例外ではない。まず韓国では、日本以上にあらゆる階層を通じて高学歴志向が強く、本書によれば、中学生の98%が大学などの高等教育への進学を希望して、厳しい受験戦争に身を置くことになる。
 こうした高学歴志向は、単に高い所得を得ることを目的とするものではない。何故(なぜ)なら、80年代後半以降、大学の定員増により大卒と高卒の賃金格差が縮まっても、高学歴志向は続いているからだ。
 それでは、何故、そうまでして高学歴を求めるのか? 著者は様々な調査データを分析して、「韓国では、高学歴を得れば、出身階層に関わらず、高い社会経済的地位を得ることができる」ことを明らかにする。そして、多くの人が、高い職業的地位に就くことで「社会的威信」を獲得し、自らの「地位の高さ」を他の人にアピールして、他者からないがしろにされなくなると考えているという。
 このため、韓国では、塾や習い事のために子供1人あたり毎月10万円以上、支払う親も多く、必然的に少子化の傾向が続くことになる。日韓に共通して言えることは、教育にお金がかかることと、働く女性の子育て支援が十分でないことであり、この問題を解決しない限り、少子化の改善は望めない。
 他国の社会をここまで実証的に解明したことは、隣国との学術交流の模範として高く評価したい。今後は、日本以上の「大学の序列化」や「徴兵制」が高学歴志向にもたらす影響についても分析を拡(ひろ)げてもらいたい。
 [評者]小林良彰(慶応大学教授)
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 東京大学出版会・6510円/ありた・しん 69年生まれ。東京大助教授。東アジア研究。

2017年6月13日火曜日

問題少女-生と死のボーダーラインで揺れた  [著]長田美穂

■逆説的に結ぶ生々しい残像

 リストカット、摂食障害、薬物・セックス依存、境界性人格障害、と帯にある。二十歳で自死した少女を説明するありふれたキャッチコピーだ。でも、読まずにはいられなかった。書き手が「揺すられる」対象に会った瞬間、ノンフィクションは生まれる。
 抗うつ剤の取材で知り合ったレイカは大江健三郎を読破し、ビョークを聴く感度の鋭い十六歳。二人はときに取材を逸脱し、友だちのようにつき合う。でもレイカは著者の取材者としての計算を見透かしていた。著者があるライブに誘った直後に連絡を断(た)つのだ。結局なにもわかってないね、とでもいうように。
 著者は告白する。彼女の才能に嫉妬(しっと)し、肝心のところで踏み込めなかった。だからこそ死の理由を見極めたいと。そしてなんと、レイカを追い込んだ「悪者」探しの旅に出るのだ。それは、普通に自分を好きになりたいだけと語った彼女の真意から隔たる旅なのだが、支離滅裂に見える著者自身が晒(さら)されることで二人の間の不協和音がいっそう際立ち、私は最後まで目を離せなかった。
 取材者の地軸が狂う。個と個が鈍く捻(ねじ)れる。狂いと捻れが逆説的に生々しくレイカの残像を結ばせ、消し去った。
 [評者]最相葉月(ノンフィクションライター)
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 PHP研究所・1470円

2017年6月12日月曜日

ワークライフバランス社会へ [著]大沢真知子

■正社員多用で経営に成果

 日本の企業はもっぱらパートなど非正社員を多用して人件費の削減に努めてきた。グローバル化に伴う「コスト競争の激化」に対応するためだ。これに対し、「正社員の働き方を柔軟にし」、日本とは逆に「非正規から正規への移動を進めて」きた国のほうが、経営面で高い成果を上げていると著者は言う。経営と労働の双方が利益を共有する「シェアリング・フルーツ」を、そうした国ではどのように実現してきたのか。その答えが「ワークライフバランス」である。
 仕事一筋の正社員にも、家庭と両立可能な柔軟な働き方を慫慂(しょうよう)する。その結果、労働時間は短くなり、賃金も減るが、時間あたり賃金は変わらず、自由な時間が拡大する。正社員の地位に経営側も固執するのは、そのほうが企業に対する忠誠心が期待でき、労働時間の減少ほどには生産も減らないからだ。
 「正社員のあり方を変えることができなければ、日本の非正社員問題を解決できない」という著者の主張に異論はない。ただ、その実現に向けた役割を日本の政府に求める前に、非正社員との共闘を怠り、待遇改善の遅れに関し経営側と「共犯」関係にあった日本の労働組合に、評者としては反省を求めてほしかった。
 [評者]高橋伸彰(立命館大教授)
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 岩波書店・2100円

2017年6月11日日曜日

テレビは政治を動かすか [著]草野厚

■踊り踊らされるという見方を超えて

 ドキュメンタリー番組の格付けをするNPO団体を設立するなど、専門である政治学の枠を超えて活躍する著者。最近の論壇での発言に「この人は保守?リベラル?」と判断に迷うことも多いのだが、いまだにこの二分法にとらわれている古い人間は、著者がリアルタイムで目撃している「テレビと政治のビミョーな関係」を感じ取ることなど到底、できないであろう。
 テレビを論じる専門家であると同時にテレビ出演者でもある著者は、小泉自民党が圧勝した昨年の総選挙を例にあげながら、テレビ報道の特性を「洪水報道化、二項対立、制作者の誘導が容易、映像が命、時間的制約」という五点にまとめ、今回の選挙における自民党メディア戦略はこの点を巧みについていたことを明らかにしていく。
 しかし一方で、「マスコミは小泉政権の広報機関と化した」「有権者もマスコミの偏向報道に踊らされた」といった意見は必ずしも正しくない、とも言う。著者は、自民党の圧勝はあくまで改革の評価による「業績投票」によってもたらされたもの、と考えるのだ。
 ただ、小泉首相が「テレビはじめメディアを縦横無尽に使い、いや使い尽くし、世論の支持を得」たのは事実であり、それに関しては「やりすぎだ」との批判があることに触れるのも忘れない。このように本書では昨年の「小泉劇場」で何が起きていたのかが、実に客観的にバランスよく語られる。著者は、小泉首相に対する自分の評価が、この四年余で大きく揺れ動いたことまで、率直に吐露している。
 問題は、インパクトのある映像や極端なフレーズにならされ、すっかり“テレビ脳”になっているわれわれに、中立的なスタンスからの著者のメッセージがどれだけ届くだろうかということだ。
 「テレビは政治を動かすか」というタイトルを見て「で、結局は動かすの?動かさないの?」と答えだけを知りたくなった人にこそ、気持ちを落ち着けて読んでもらいたい本だ。もちろん、テレビ制作者にも政治家にも。
 評・香山リカ(精神科医)
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 NTT出版・1680円/くさの・あつし 47年生まれ。慶応大学教授。著書に『国鉄改革』など。

2017年6月10日土曜日

教養の歴史社会学 [著]宮本直美

■「音楽は言葉で語りえない」のはなぜ?

 クラシック音楽であれポピュラー音楽であれ、音楽について語るのは難しい。作曲や演奏の技法、歌詞、作り手のライフヒストリーについて私たちは確かに饒舌(じょうぜつ)に語り、音楽の優劣について言い争ったりするのだが、最終的には「音楽は言葉では語りえない」という割と平凡な諦念(ていねん)に達してしまうことが少なくない。
 本書は、私たちが知らず知らずのうちに身につけてしまっているそうした音楽観の社会的「起源」の所在を、19世紀ドイツの文脈に照準することによって教えてくれる。
 本書の主眼は、後発先進国ドイツの市民層に広がった「教養」の論理とその社会的意味を、同時代の音楽実践と絡み合わせながら分析していく点にある。「教養」も「市民」も「音楽」も、目指されるべき理念とされるが、決して到達することのできない何かであり、明確な規定を持ちえないにもかかわらず、というか、持ちえないがゆえに、人々をその実現・達成に向けて駆り立てることとなる。
 この奇妙な論理の成り立ちを、著者は、アマチュア音楽活動、市民的天才というバッハ像の誕生、言語には還元されない「純粋な器楽」への指向、作曲家の絶対化と結びつく聴取様式の生成、といった具体的な音楽史のなかに読み解いていく。到達不可能なものへと不断に人を駆り立てる「教養」の論理は、音楽という社会的な場において顕著な形で現れ出ることになった。「言葉では語りえない」という音楽イメージの誕生の背後には「教養」の論理が控えていたのである。
 終章では、この奇妙な論理が「ドイツ」という地理的・歴史的な理念にも適用されることが指摘される。大学教育から音楽、そして「ドイツ」にまで通底する「教養」の論理を炙(あぶ)り出す議論は十分な実証性を持っており、実に説得的である。19世紀ドイツという文脈の固有性を尊重した周到な著作なのだが、「語りえない」幻想にいまだ浸されている現代という近代社会を相対化するうえでも、重要な示唆を与えてくれるのではなかろうか。
 評・北田暁大(東京大学助教授)
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 岩波書店・6930円/みやもと・なおみ 69年生まれ。東京大学文学部助手。社会学。

2017年6月9日金曜日

ダール、デモクラシーを語る [著]ロバート・A・ダール

■9・11後の民主主義を問い直す

 現在では、複数の政党や多様なメディアといった「民主主義」にとって不可欠な要素を持つ国は少なくない。しかし、その一方で「自分たちで自分たちのことを決めている」と実感できる市民がどれほどいるのであろうか? 各国の政治学者が集う国際組織であるIPSA(世界政治学会)の今年の大会テーマが「民主主義は機能しているのか?」であるのも、この所以(ゆえん)である。
 さて、本書の著者ロバート・ダールは、民主主義理論の第一人者と評される米国政治学者である。「この世の中には権力を持つエリートとそうではない一般市民がいるが、争点が異なれば権力を持つエリートも異なるから、エリート間での競争が生じる」という彼の主張(政治的多元主義)は、市民の意向を強調し過ぎると保守派から批判される一方で、米国政治の現状を肯定するエリート論者としてリベラル派からも批判されてきた。
 そんなダールが、9・11以降の世界をどう見ているのかに常々興味があったが、彼がイタリアのジャーナリストと民主主義の現状について語り合った本書が刊行された。
 まずダールは、民主主義の要件として、国家の直接の統治下にあるすべての成人には、決定に参加する平等な権利と自由、機会、資源が認められなければならないとする。そして、9・11以降の米国で「出版や表現の自由」といった自由とデモクラシーの諸権利が制約を受け、重要な決定に対する議会や司法機関、有権者によるチェック機能が政治指導者や軍部に移行していると警鐘を鳴らす。
 さらに、国際組織の中で民主主義が自然に具体化されるという楽観論を戒め、国際的な条約や合意に基づいて設立された100近い国際組織がより広範な市民に対してより大きな責任を負うべきであると主張する。
 私にとってはいささか保守的と思えるダールですら、「市民と指導者層との間の権利や機会の不均衡」を憂えている。「民主主義の質」が問われる現在、あらためて民主主義を問い直す契機として本書を手にしてみてはどうか。
 評・小林良彰(慶応大学教授)
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 伊藤武訳、岩波書店・2415円/Robert A.Dahl 15年生まれ。政治学者。G.Bosetti(ジャーナリスト)編。

思想の哲学

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